このWebサイトについて
このWebサイトは書籍「飢えと耐えと - 小野田貞夫著」をデジタル化したものです。
元の書籍は縦書きであるところが横書きになっていること、フォントが異なることなどで、雰囲気や印象が違っている部分があるものの可能な限り著者が伝えたいことに忠実にWebサイト化しております。
また、元の書籍の文章は1944-1945年当時の「日記」と、執筆時の1985年当時に追記された「解説」で構成されていますが、Webサイト化に当たってその2つをわかりやすくブロックで分ける処理をしています。
さらに、より平素な現代語で「日記」及び「解説」を文章化したブロックを2018年時点の現代語訳として追加しています。こちらは事実を忠実に書くよりも、多くの方に読んでいただくために物語のような表現にしておりますことと、訳者の無知のため、一部事実を歪曲してしまっている場合がございます。その点はご了承いただき、事実のみをご覧いただきたい場合は、1944-1945年当時の「日記」、執筆時の1985年当時に追記された「解説」のみをご覧いただくようお願い致します。
まえがき
大東亜戦争末期の一年七ケ月間の従軍日誌を一冊の本に纏めようと思ったのは、終戦直後からで、それ以来ずっと持ち続けて来た、小生のただ一つの夢である。今ようやくその夢を実現する機会に恵まれたのである。還暦もとおに過ぎ、身体にも心にも多少のゆとりが出来たからであろうか、今果さなければ一生涯、小生の夢は実現することなく終るであろう。
何故ならば、年毎に否一日一日、肉体的にも精神的にも若返えることはなく、好むと好まざるとに拘らず、確実に老境の深みに歩を進め行かねばならぬ宿命にあることを自覚しなければならぬからである。
九十歳にして倒れるか、七十歳にして惚けるかは、人それぞれ個人差があり、一寸先を予知することは不可能と申しても決して過言ではないのである。今此の貴重な一刻を大切にし数少ない夢の実現に心を打ち込める絶好の機会と思うのである。
起稿の動機
一、我が国で四十年近くも平和が続いたことは、近世では珍らしいことで、非常に喜ぶべき事であると共に、此の記録を五倍、十倍と永久に残すことに全精力を傾注すべき時期であると思う。
然るに、今或る一部に四十年の平和にむず痒さを感じはじめて来たような気配がする。
これは小生だけが感ずることだろうか。実に危険な事である。四十年の平和も一瞬にして瓦解することであろう。
故に小生は戦争の一部を体験した一人として、戦争の悲惨さ、空しさ、そして最大の犠牲を払っても得るものもなく、深い傷痕のみ残る醜い争いだけは絶対に避けるべきであることを強く訴えたいのである。
小生達の体験した戦争とは、全く異った型の戦争で命をおとし、又地獄の苦しみに苛えなまれた万々も居られることであろう。
軍隊は運体と申すように、銃剣の刃はこぼれ、矢弾も撃ちつくす程、熾烈な闘いを体験された方、或は一度も敵との遭遇もなく、一発の弾丸も撃った経験のない方、戦争は実に
千差万別である。小生も七年近い軍隊生活のうちで、教育訓練以外では一発の実弾も発射した事はなかったが、「ノモンハン」事件と、大東亜戦争に参加した一人である。
次元の異なる現代青壮年の方々には、この日誌の一字一句は、全く理解の出来ない事ばかりで、時代物の漫画を見て居るようで滑稽極わりないことと思うだろう。だが、幼児の頃から此のような滑稽な教育を受け、滑稽な人間に造りあげられた故に、あの滑稽極まる大きな戦争に立ち向い、四年間も闘い続けることが出来たのである。然し此のような事は知能ある人間にとって、決して自慢になることではない。もう二度と繰り返してはならぬ、民族の滅亡は必至である。勝敗は問題ではないのである。
二、昭和四十一年頃、月日は不詳だが、朝日新間の「天声人語」の欄に、メレヨン島の悲惨な情況を取りあげて、最高指揮官の北村旅団長及び上級幹部に対して、強い批判が報じられておった。
流言飛語程恐ろしいものはない。無根を事実に替えてしまう。階級地位的に最も弱い下士官兵の食糧まで掠め取る程のずうずうしい人間であったなら、流言飛語や世論の悪評位で、自ら生命を断つとはとうてい考えられないことである。
旅団長の割腹自決は、此のような理由でなされたのではなく、もっと神聖で死に勝る、責任感があったからではないだろうか。
此のような誤解がいまだに残って居るとしたら、幾らかでも誤解が和らげられることを祈り乍ら、拙稿に筆をおろす次第である。
発刊の目的
本文に出てこられる生存者の方々並に御遺族の方々に、拙ない日誌ではあるが、一冊を贈呈いたし、当時を偲んでいただき、国のため御殉職なされた戦友各位並に帰国後の物故者各位のご冥福をあらためてお祈りしていただくよう、重ねてお願い申し上げる次第である。
此の日誌にご芳名の出てこられる方々は、北は北海道から南は沖縄まで、全国にわたるご住所故、一勢にお届け致すことは出来難いことで、又現在ご住所の判明して居る方は、甚だ少数で、姓だけでお名前の不明の方、或は出身県もわからぬ万々も多数居られるので、ご愛読下された諸兄に、ご存知の方が居られれば一人でも多くの方のご住所をお知らせ下さるようご協力いただければ幸甚と思い居る次第である。
尚、在島中の日誌は、当時の雰囲気をこわさぬ為にも、原文のまま手を加えず載せてあるので、文法上の誤りや字句のわかりにくい箇所、軍隊用語等、意味の解せないところも多くあることと思うので、解説欄を設け、其の緩和を図ったつもりである。
日誌に一番多く出てくる時間は、軍隊では誤読を防ぐため、二十四時間制を用いておった。
その読み方は「例」に記す通りである。
「例」
〇三、四五時
一二時四十五分
午前三時四十五分
二三、〇〇時
二十三時
午後十一時
本文に入る前に、参考になれば幸いと思い、日誌に登場される方々の御芳名簿と、メレヨン島の位置図、略図、部隊の配置図及び経歴表を附した。
「注」
本書掲載の附図は総て、全国メレヨン会より配布を受けたプリントより引用させていただいたことをご披露致すと共に、紙上にて厚く御礼申し上げる次第である。
又、掲載の写真は井上善七氏よりご提供を頂いたものである。哀心より感謝申し上げる次第である。
昭和五十年十一月、井上氏が第二次遺骨収集派遣団員として渡島した時撮影されたものである。
大東亜戦争従軍日誌
解説
「ロ号」演習と称し、牡丹江省附近に於いて、冬期演習を行うという名目で、編成を命ぜられたものらしい。編成には歩兵第二十二聯隊第二大隊を以って当てられた。
「ロ号」とは防諜上の符号である。
牡丹江省付近で冬季演習を行うという名目で「ロ号」演習の命令が発せられた。
演習を行う隊は、私が属する歩兵第三十二連隊(第三大隊)が割り当てられた。
「ロ号」というのは防諜上の暗号である。
二月二十三日
「イ号」演習参加者、軍装検査及出発
本間軍曹「ロ号」演習先発
D経理検査受検
〇討ち入りに似つかわしくも雪の夜に
万歳の声に戦友ぞいで立つ
解説
D経理検査のDは、師団の符号である。
軍隊の日常生活の軍紀の維持は、検査であると申しても過言ではないようであった。それ位い検査が多かった。軍装検査、内務検査、兵器検査、被服検査、経理検査、その他に身体検査、私物検査、所持品検査。検査のない日は無い位い、一つか二つは必らずあったようだ。生活環境の異った各地方から集まった若者を兵隊という、同じ型の特殊な人間に造り上げるには、欠くことの出来ない手段であったのかも知れない。
「イ号」演習とは「ロ号」演習に先立って、下令された編成で、聯隊の各大隊より抽出編成された部隊で、中支方面に出動と記憶して居るが定かでない。
本間軍曹は、本間重吉氏で、第二大隊本部附下士官、後に旅団司令部附き曹長となる。
「イ号」演習に参加した部隊は、軍装検査を行ったのち先立って中支方面に出動した。中支とは「中支那」の略であり中国大陸の中部地方を指す。
また、「ロ号」演習に参加している私が属する部隊では、本間軍曹が先発した。行き先は公表されなかった。
残された私たちはD経理検査を受検した。Dは検査をする師団の暗号である。
ほぼ毎日、少なくとも一日に1つか2つは様々な検査を受けている。検査は、軍隊の日常生活の規律を維持する役割も持っていると思う。生活環境の異った各地方から集まった若者を「兵隊」という、同じ型にはめた特殊な人間に造り上げるには、欠くことの出来ない手段なのであろう。
二月二十五日
「ロ号」演習編成示達され、個人装備に万全を期す。夕刻、参加梱包の速かに積載完了する如く命令あり。各隊使役兵を集合せしめ、仮駅(二〇九地点)に運搬作業をなす。
解説
「ロ号」編成左の如し。
大隊本部 少佐 山崎哲 以下 三五名
第九中隊 大尉 阿部弥佐久 一〇〇名
第十中隊 中尉 斉藤豊雄 一〇〇名
第十一中隊 大尉 小笠善勝 一〇〇名
第十二中隊 中尉 桑江良逢 一〇〇名
機関銃中隊 中尉 池内義一 一二三名
速射砲大隊中隊 中尉 高木忠造 七五名
合計 六三三名
使役兵とは、或る仕事に必要な人員を各隊、或は各班に割当てられて選抜された。義務人足のようなものである。
「ロ号」演習の編成が伝えられた。いよいよ出発が近いと思い、個人装備を確認し万全を期した。
「ロ号」演習は、山崎哲少佐を大隊本部とし、6部隊合計633名の編成となった。
夕刻、演習に参加する者の荷物を梱包し、速やかに列車に積むようにと命令があった。
各隊の使役兵を集合させ、近くの駅に運搬作業をさせた。
使役兵というのは、各隊に割り当てられた雑務を行う兵のことである。
二月二十六日
早朝より各委員及び動員室に連絡をなす。
一〇、〇〇時より軍装検査。小生参加せずに出発準備をなす。
一四、〇〇時二〇九地点出発。部隊長(泉可畏翁大佐)以下の見送りを受く。
解説
第一、第二大隊及び第二大隊残留員の見送りを受ける。泉部隊長の訓辞及送別の辞あり。
残留の歩兵第二十二聯隊(第二大隊欠)は、同年七月、北九州の警備の名目で、揚間を出発したが、それは防諜上の仮りの命令で、艦の航行中に沖縄本島警備の命令が下達され、十月頃からの米軍との激戦で、玉砕に近い痛手を受け、翌二十年六月下旬遂に、組織的戦闘は終了したが、生き残り兵によるゲリラ戦的攻撃を続行し、終戦を迎えたのである。
泉部隊長は、第二大隊が「ロ号」演習に参加のため、屯営を出発後、北郷格郎大佐と交代になり、沖縄本島警備に就かれたのは北郷聯隊長である。
早朝から各委員と動員室に出発の連絡をした。
10:00より軍装検査があった。私は参加せずに出発準備をした。
14:00に駅を出発。部隊長の泉部隊長が訓辞と送別の挨拶をしてくださり、第1、第2大隊全員で見送りをしてくださった。
残留した歩兵第22連隊についてその後の運命を記す。歩兵第22連隊は同年(1944年)7月に、北九州を警備するという名目で「揚間」を出発した。だがそれは防諜上の仮りの命令で、歩兵第22連隊を乗せた艦は航行中に沖縄本島警備の命令を受け沖縄に向かうこととなったそうだ。
10月頃からは米軍との激戦で玉砕に近い痛手を受け、翌年(1945年)6月下旬には組織的戦闘は終了したが、そこからも生き残り兵によるゲリラ戦的攻撃を続行し、そのまま終戦を迎えたのである。壮絶な運命であった。なお、歩兵第22連隊を指揮したのは北郷連隊長である。
二月二十八日
朝鮮の空も快晴、吾等の前途を祝福する如きなり。
小谷衛生伍長の衛生に関する学科あり。
解説
軍用列車は、鮮満国境を通過して、いよいよ朝鮮に入った。部隊を乗せた軍用列車は、有蓋貨車で、採光用の小窓もなく、一扉をしめると真暗闇。
その中に両側に背のうを枕に、中央に足を伸ばし、寝返えりも自由に出来ぬ程に詰め込まれた。列車内には暖房用の設備は伺もなかったが、ぎっしり詰め込まれた兵士の体温で、寒さはさほど感じなかった。それでも朝、目を覚まして、貨車の天丼を見ると、兵士の息が凍りついて、真っ白になって居った。此の季節でも大陸の夜間は、零下二十度以下となることが多かった。列車の走行中に、衛生下士官に依る教育が行われた。
内容は、これから参加するのに必要な衛生関係の注意事項。特に、凍傷に対する予防法や手当法等、又、幕舎内での一酸化炭素中毒に関する注意事項等であったようだ。
此の時はまだ、各人が勝手な憶測で、普通の演習ではないと云う事だけは感じて居ったようだが、任地がどこかは全々わからぬので、部隊としても、冬期演習に必要な教育指導を行って居ったようだ。
満州から国境を越え、いよいよ朝鮮に入った。我々が乗った軍用列車は小窓も無い貨物用の列車で、扉を閉めていると真っ暗闇であった。
もちろん暖房設備などは無く、皆、両側の壁を背に中央に足を伸ばし鞄を枕にして横になっていた。寝返りを打つこともできないほど詰め込まれ自由は効かなかったが、ぎっしりと詰め込まれたことでお互いの体温を感じさほど寒くなかった。それでも、朝になり目を覚まして天井を見ると、兵士の息が氷に変わり真っ白だったことを憶えている。2月の大陸の夜間の気温は、マイナス20度以下になることも多かった。
列車の中で、衛生下士官よりこれから参加する作戦に必要な衛生関係の注意事項の伝達があった。特に、凍傷に対する予防法や手当法などや、野営テントでの一酸化炭素中毒に関する注意点だった。この段階では部隊の誰も任務する場所がどこか全くわかっていなかったようで、とりあえず冬期演習に必要な教育指導を行なっていたようだった。ただ、兵士の間では普通の演習ではない、ということは感じ取っていた。
二月二十九日
田原軍医中尉、菊地曹長、小谷衛生伍長と小生の四名は先発を命ぜられ羅南駅より別列車に便乗す。(軍用でない普通客車)
解説
田原軍医中尉及び小谷衛生伍長は、共に山崎隊救護班勤務。菊地曹長は山崎隊第十二中隊附下士官で山形県出身。
寿司詰めの貨車より開放されてホッとした。普通列車の車内は、内地の客車より広く感じられた。座席は片側に二人、通路の向い側は三人座れたように記憶して居る。あの時は、乗客も多く満席に近かったが、全員席れることが出来た。
満洲と朝鮮の地方人が多かったので、車内は生葱とにんにく、とうがらしを常食としている民族だけに、むせかえるような特有の匂いが充満して居ったが、すぐなれてさほど苦にならなかった。軍人特有の皮革と煙草の匂いだけの中で生活して居る小生達には、地方の雑多な匂いで、却えって安堵感を覚えた。
今走って居る鉄道は、昭和十七年頃、一ヶ月間の休暇の時、一人旅で往復した事があるので、朝鮮従断は今度で三度目である。市街地の町並み等の記憶は、全く消え失せて、今思い出せるのは、禿山に近いような山々と疎らに見え隠れする弧庵のような素朴な民家だけである。又、車内を売り歩く松の実は、わりとはっきり記憶に残って居る。内地の物とは異って、西瓜の種かひまわりの種位いの大ききだったように覚えて居る。だが、一度も食べた事はなかった。
田原軍医中尉、菊地曹長、小谷衛生伍長と私の4名は、先に出発することを命じられて羅南駅から普通客車に移った。
(
羅南区域は、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道清津市に属する区域)
田原軍医中尉、小谷衛生伍長は、山崎隊救護班に勤務していた。
菊地曹長は山崎隊第12中隊附下士官で山形県出身の方である。
正直なところ、寿司詰めの状態だった貨車から解放されてホッとした。普通客車は車内は、座席は片側に2人ずつ、通路の向かい側は3人も座れるような広さがあり、日本のものより広く感じられた。乗客が多く満席に近かったが、運良く全員座ることができた。
満州と朝鮮の現地民が多かったので、車内は生葱とにんにく、とうがらしを常食としている民族だけに、むせかえるような特有の匂いが充満していたがすぐに慣れた。軍人特有の皮革と煙草の匂いだけの中で生活している我々は、そういった雑多な匂いにがかえって安堵を感じた。
この鉄道は、昭和17年頃に1ヶ月の休暇の時にひとり旅で往復したことがあったので、朝鮮縦断は今度で3度目になる。窓から見えるのは禿山に近いような山々と、たまに見え隠れする小さく素朴な民家だけだった。
また車内では松の実を売っていた。日本のものとは違って、スイカの種かひまわりの種くらいの大きさだった。
三月一日
〇八、五〇時釜山駅に到着。直ちに任務毎に分かれ連絡をなす。
揚崗より先発した、栂瀬中尉及び本間軍曹に逢う。至極元気なり。
主力部隊は明二日夕刻到着の予定。本夜は寺院に宿をとり、一夜の夢を結ぶ。
解説
栂瀬中尉は栂瀬宥宣氏で、山崎隊第十中隊附き将校で山形県出身。
揚崗より先発した栂瀬中尉及び本間軍曹と再会して安堵した。
小生の任務は何であったか。記憶が薄れて、はっきりしたことは不明であるが、在満中は被服係りをして居ったから、たぶん被服の受領だったと思う。
其の時の宿泊地は寺院と記されて居るが、寺院の全景は浮んでこない。庭と粗末な玄関だけが目に浮ぶ。今思うに、無住の寺院のようで、人影なども見当らなかった。庭といっても痩せた草が至る所に生えていて、掃除等もされた形跡はなかった。玄関の柱なども風雨に晒されて、貧弱にさえ感じられた。食事はどこで何を食べたかも、同室したのは誰れであったかも思い出せないのである。
8:50に釜山駅に到着した。すぐに各自分かれて任務に付いた。私は被服係であるため、服を受け取りに向かった。
揚崗から出発していた栂瀬中尉と本間軍曹にお会いした。とても元気でいらっしゃったこと、無事再開できたことで安堵した。
栂瀬中尉は栂瀬宥宣氏というお名前で、山崎隊第十中隊附きの将校である。私と同じ山形県出身である。
主力部隊は明日3月2日の夕方に到着の予定とのこと。
今晩は寺院に宿をとることになったが、人影は無く空であった。痩せた草が至るところに生えていて、掃除などもされておらず玄関の柱も風雨に晒されて貧弱な寺院であった。
三月二日
主力部隊は予定通り二一、〇〇時到着す。
直ちに被服の看替え及び列車よりの荷物の卸下、艦への積載作業をなす(徹夜)。
解説
冬期演習参加のつもりで居ったが、着替えの被服が夏服であったので、始めて、南方作戦に参加することがわかった。だが、任地はどこであるかは、まだ誰れも知ることは出来なかった。身を切るような酷寒の北満の地で、七度も冬を迎え、寒さと闘ってきた吾れ吾れなので、一度は南方のような明るい華やかな土地で勤めて見たいと云う考えは、誰れしもがもって居たと思う。
兵士達は、夜冷えの強い港で、夏服と着替え、いささか震え乍らも、心がなごみ、自然と動作も浮き浮きして活気に満ちあふれて居った。
主力部隊が予定通り21:00に到着した。すぐに服を着替え、列車から荷物を下ろして艦に積載作業をした。
出発した時点では冬季演習への参加のつもりでいたが、着替えの服が夏服だったことで初めて南方作戦に参加することを理解した。
身を切るような極寒の北満の地で7回も冬を迎えて寒さと戦ってきた我々は、一度は南方のような明るい華やかな土地の任務に付きたいという考えを誰もが持っていた。
兵士たちは、とても冷える夜の港で夏服に着替え、震えながらも心がなごみ、自然と気持ちが高揚して活気に満ち溢れていた。
作業は徹夜で続いた。
この時、任務の地が具体的にどこになるのか、それはまだ誰も知らなかった。
三月三日
一六、〇〇時総ての作業終り全員乗船完了す。
〇満洲も半島も八紘の大八洲
飛びかう鳥に祥かわして
解説
乗船した輸送船は貨物船で、かなり大きな艦であった。その艦の名は忘れて、思い出す事は出来ない。将校以上は「サロン」の船室に、下士官兵は船倉内の蚕棚のように作られた寝台で起居する事になったように記憶している。
16:00に全て作業が終わり、全員が乗船完了した。
私たちを輸送する船は貨物船でかなり大きな艦だった。将校以上は「サロン」の船室に入り、将校未満の下士官兵は荷物を積むための船倉に入ることになった。船倉の中は蚕棚のようになって寝台が作られており、その後はここで生活することになった。
ついに釜山港を出港した。寒い土地での任務を思い返しながら、もうこの大陸には戻らない気がしたし、戻りたくない気もした。
三月五日
門司港着、午前中輸送指揮官の艦内巡視あり。
夕食は艦内にて本部一同会食あり。
解説
会食とは、祝祭日か又は、何か物事のあった時に、将校以下全員が一堂に集まり、飲食を共にする事で、隊内の融和を図る目的もあったと思う。
又、小量の酒なども支給されることがあった。
瀬戸内海に面する門司港に到着した。本土に戻るのは久々である。
午前中に、輸送指揮官の館内巡視があった。
夕食は館内で将校以下全員が一堂に集まって、少量ではあったが酒なども飲みながら食事をし、隊内の交友を深めた。
三月八日
一四、〇〇時門司港出航。
両替えせる金額受領す。
解説
三月五日門司港に寄港してから八日の午後出航迄の二、五日間は、不備の資材及兵器の積載作業と各輸送船の集結、そして一大輸送船団の編成が完結するのに要した日数である。此の時点でもまだ任地は知らされて居なかったようだ。
両替えとは、満洲の貨幣を日本の貨幣に替えたものである。
14:00に門司港を出港した。
3月5日に門司港に到着してから本日の出航までの2日半を要したのは、資材や兵器を補充するめの積載作業と、各輸送船の集結を待ち大規模な輸送船団の編成をするためだった。
それだけ入念な準備をしていたが、任地はまだ知らされなかった。
出港前、兵たちに満洲の貨幣を日本の貨幣に両替したお金が配られた。
三月十一日
〇九、〇〇時頃より海水の色褐色に変わる。上海近海を通過したらしい。
解説
敵潜水艦の襲撃をさけるため、大陸沿岸を南下したらしい。海水の色の変わったのは、揚子江から流れ出た泥水らしいとの噂があった。丁度その頃が、船酔も頂点に達し、三度の食事は全く喉も通らず、食物の匂いすら受けつけぬ状態であった。吐気を催し、甲板に設置された便所まで行き届かぬうちに、粗相をしてしまう有様で、全く船倉内は、人間の起居して居る状態ではなかったようだ。波の荒い事で有名な玄海灘でもまれては、いかに強い軍人といえども一たまりもなかった。そんな中で平然として居る浜育ちの海に強い兵も居った。本当に頼もしく感じられた。そのような兵士達に叱咤され、又励まされて除々に平常に戻っていった。
9:00時頃から海水の色が褐色に変わった。上海付近を通過したらしい。
揚子江から流れ出る川の水は泥水のため、海水の色が褐色となるのだそうだ。
どうやら敵の潜水艦の襲撃を避けるために、一旦大陸に向い大陸に沿って南下するようだ。
ここに到着する頃には、船酔いの苦しみが頂点に達していた。
三度の食事は全く喉を通らず、食べ物の匂いも受け付けない状態だった。吐き気を催すと甲板に設置された便所に向かうのだが、たどり着く前に吐いてしまうような散々な状態だった。
そのため兵の生活空間である船倉は、とても人間が生活できるような環境ではなかった。
九州と大陸にある玄界灘は波が荒いことで有名で、いかに強い軍人であっても船酔いには勝てなかった。
そんな中で平然としている浜育ちの海に強い兵もいて、本当に頼もしく感じられた。そのような兵士達に叱咤され、励まされ、徐々に平常に戻って行った。
三月十二日
日没近くなりて敵潜水艦の襲撃を受く。
爆雷の音、薄暗き海面に響き渡る。
非常待避命令下り、半数は甲板、残余は艦内にて警戒を厳重にす。
小生と中村、鵜沢の三名は、大隊長伝令として「サロン」に待機す。
我が駆逐艦の活躍大なり。
解説
敵潜水艦の襲撃に対して、とるべき行動等一応の教育は受けて居ったが突然の事にて艦内は一時騒然となったが、上官の的確なる指示に依り、速かに部署についた。
輸送船団の前後左右には、護衛艦が絶えず警戒し乍ら進行して居った。波の荒い時などは、一万屯級の輸送船も全く木の葉の如く波に翻奔され、小山のような波頭に登ったかと思うと、忽ち奈落の底に吸い込まれ、海中に潜ぐり込んでしまうかと思うような錯覚に恐怖を感じた。
輸送船団の配置図を見ると、すぐそばに友軍の輸送船や護衛艦が居る筈なのに、力眼では一隻の僚船すら見る事は出来なかった。此のような時は本当に心細く感じた。又、海の広大さも痛切に感じられた。
中村とは中村惣吉氏で上等兵、鵜沢は鵜沢信明氏で兵長、共に北海道出身で、大隊本部勤務の優秀な兵であった。
日没近くに、敵潜水艦の襲撃を受けた。
凄まじい爆雷の音がし、薄暗くなった海面に響き渡った。
襲撃の際のとるべき行動については一応教育は受けていたが、突然のことで艦内は一時騒然となった。
非常退避命令が下り、上官の的確な指示によって速やかに持ち場についた。半数は甲板に、残りは艦内で厳重に警戒した。
私と中村、鵜沢の三名は大隊長の伝令で「サロン」に待機することになった。
私が乗船している艦を含めた輸送船団の前後左右には護衛艦が絶えず警戒しながら進行していたが、その駆逐艦の活躍より大きな損害はなく危機を脱したようだった。
敵の攻撃だけなく、海を渡るということ自体が非常に危険で恐怖を伴う経験だった。
波が荒い時は、一万トン級の輸送船でも木の葉のように波に翻弄され、小さな山のような波の上に乗ったかと思うとたちまち奈落の底に吸い込まれ、海中に潜り込んでしまうかと思うような錯覚を感じ恐怖したことが何度もある。
また、輸送船団の配置図を見ると、すぐそばに味方の輸送船や護衛艦がいるはずだったが、肉眼では一隻も見ることはできなかった。このような時も本当に心細く感じた。海の大きさも痛切に感じた。
共にサロンに待機することになった中村とは中村惣吉氏で上等兵、鵜沢は鵜沢信明氏で兵長である。二人とも北海道出身で、大隊本部勤務の優秀な兵であった。
三月十四日
馬公港に入る。草本一本も見当らず。何んとなく淋しき感有り。
第十中隊庄司准尉、急性盲腸炎のため下船を命ぜられる。
解説
我が輸送船団は、いよいよ危険区域に突入したのである。昨夕の敵潜水艦の攻撃は初めての体験であった。姿なき攻撃は全く不気味で、後味のわるいものである。
庄司准尉は庄司進氏で、第十中隊附山形県出身。不幸にして船中にて発病し、一刻の猶予もならぬ病状故、手術治療のため下船を命ぜられたのである。治癒後は速かに部隊復帰の筈であったが、悪戦況下で船便もなく、再び島で逢う事はなかった。
隊は台湾の高雄港を目指していたが、少し手前の馬公港に入ることになった。
第十中隊の庄司准尉が急性盲腸炎のために下船を命じられたためであった。船中で発病して一刻の猶予もらぬ病状で手術治療が必要となったのである。
艦から見る馬公港は草木一本も見当たらないような淋しい港であった。
昨日の夕方の敵の潜水艦の攻撃は初めての体験だったが、改めて我ら輸送船団はいよいよ危険区域に突入したのだ。姿が見えない敵の攻撃はとても不気味で後味が悪い感じがした。
なお、庄司准尉は庄司進氏で、第十中隊附の山形県出身である。
治療後は速やかに部隊復帰の予定であったが、戦況悪化による輸送の問題もあったためか再びお会いすることは無かった。
三月十五日
〇九、〇〇時馬公港出航、一六、〇〇時予定通り高雄港に入港停泊す。
南国の第一歩、住民の熱烈なる歓迎を受く。快よい微風、艦を覆う熱帯植物の香気、色、形、すべて吾等北国育ちの者には、全く珍らしいものばかりだ。お伽噺の国の如きなり。余りの美景に一時間余も見とれて甲板を離れる。
解説
小生達の立って居る甲板は右舷か左舷か記憶にないが、陸地までは三〇〇米位はあったと思う。陸地に近い港に停泊して居る友軍の輸送船も多かったようだ。どの艦の甲板にも土を恋う兵士達で黒山をなして居た。そうした船の中に一隻だけ、病院船だろうか、看護婦らしい女性の一団がひときわ目立った。渡満後、日本女性との接触に乏しかった兵士達にとっては何んとも言えない心の和みが胸の奥に泌み入るのを感じた。兵士達は無言ではあったが、それぞれ故郷の母、妻、姉、妹、娘、女友達と、在りし日の懐かしい思い出に時を忘れて遠望したことであったろう。
9:00に馬公港を出港し、16:00に予定通り高雄港に入港し停泊した。
南国の入り口であるこの場所で、住民の熱烈なる歓迎を受けた。
陸地まで300メートルほど離れた場所からであったが、港と島の様子が見えた。船上での長い生活で募った「土」を恋しく思う気持ちで、多くの兵士達が甲板に出てきていた。
甲板で感じる快い微風、艦を覆う熱帯植物の香気、色、形、すべて我ら北国育ちの者には、全く珍しいものばかりだった。
おとぎなばしの国のようだった。
輸送船団の中に一隻、病院船だろうか、看護婦らしい女性の一段がひときわ目立った。満州に渡ってから、日本女性との接触はほとんどなく、そんな兵士達にとっては何とも言えない心の和みが胸の奥に感じられた。兵士たちは無言ではあったが、それぞれ故郷の母、妻、姉、妹、娘、女友達と、日本で生活していた懐かしい思い出に重ねて彼女達を眺めていた。
一時間もの間、いくつかのことを忘れ、いくつかのことを思い出し、甲板に立ち尽くした。
三月十六日
暫らく振りにて土を踏む。全員但し幾組かにわかれて、時間を定められ、波止場に降り今までに汚れた被服の洗濯及び水浴をなす。久しぶりにて生まれ変わったような気持ちよさを感ず。
経理委員の瀬尾中尉、佐藤軍曹、安孫子兵長、他委員全員にて果物、菓子類、その他の購入に大量なり。
〇パパイヤも名物なるか美味ならず
〇日増毎残飯いでて船のゆれ。
解説
十二、三日間の艦内生活だが、土が非常に恋しく感じられた。部隊の艦から桟橋までは友軍の艦を二、三隻も渡らなければならなかったような記憶がある。艦内では甘味品の支給もなかったので、乾燥バナナやパイナップルの菓子等はとても美味で珍らしかつた。
瀬尾中尉は瀬尾英雄氏で、主計将校、安孫子兵長は安孫子忠生氏で、王計兵、共に北海道出身。
佐藤軍曹は佐藤甚助氏で、主計下士官、後に曹長、山形県出身。
かなり久しぶりに土を踏んだ。13日間程度の艦内生活ではあったものの、土が非常に恋しく感じられた。
私が乗船していた艦から、他の艦を2、3隻渡り継いで陸地に降り立った。
全員がいくつかの組に分かれて、時間を定められ、波止場に降りて汚れた服の洗濯と水浴をした。久しぶりに生まれ変わったような気持ちよさを感じた。
その後、乾燥バナナやパイナップルの菓子なども食べることができ、とても珍らしく美味しかった。パパイヤを食べたが美味しいとは言えず、名物とはこういうものだなと思った。
経理委員の瀬尾中尉、佐藤軍曹、安孫子兵長、他の委員全員が、果物、菓子類などを大量に購入していた。
瀬尾中尉は瀬尾英雄氏、安孫子兵長は安孫子忠生氏、共に北海道出身。
佐藤軍曹は佐藤甚助氏で、後に曹長となった。山形県出身。
三月二十日
五日間の高雄港も名残り惜しく、〇九、〇〇時出航。
厳正なる艦内軍紀に率されつつ、涯しない海原を我が艦は進み行く。
〇幾百里南によるも型かわらざる
冷きはずの北極七斗の北の星
すぎたる夕べ汗ばみて見る
〇はじめてに見る飛魚の活き姿
小鳥なるかも我が船ぞおう
〇あくまでも濁りなきかな海原の
藍の中おば我が船ぞゆく
解説
船乗りも次第に馴れたせいか、船酔もずっとらくになり、見るのも嫌だった三度の食事も楽しみに変わって来たようだ。
日中の強い陽ざしに焼けた艦は、夜になっても仲々冷えない。殊に船倉内は蒸し風呂のようで、とても眠る事は出来なかった。夕食が終ると、殆んどの兵士達は、甲板に出て海風にあたり、南洋のきれいな星空を眺め、故郷の話等を語り合って、船倉内の気温の下るのを待った夜が幾日も続いた。
南洋のロマンの明星、南十字星を自分の目で確かめたのも此の頃であった。相像して居たよりも変型十字だったように記憶して居る。
5日間停泊した高雄港は名残惜しさを感じながら、9:00に出港した。
厳正な艦内の規律で気を引き締め、果てしない海原を艦は進んでいくのであった。
この頃には船酔いにも慣れ、やっと食事が楽しみに変わってきていた。
日中の強い日差しにさらされた艦は、夜になってもなかなか冷えない。そのため船倉は蒸し風呂のようでとても眠ることはできなかった。夕食が終わるとほとんどの兵士たちは甲板に出て海風にあたり、南洋のきれいな星空を眺め、故郷の話などを語り合って、船倉の気温が下がるのを待った。そんな夜が何日も続いた。
南洋の空に輝く南十字星を自分の目で見れたことには感動した。想像していたよりも変形した十字だったが。
三月二十五日
二〇、〇〇時不意に待避警報発令され、全員甲板に出る。約一時間にて解除。
〇幾度か非常警報令さるも
我が船護る神ぞあらたなり
〇月落ちてオリオンの星座ひとしおに
きらめき立ちて波に砕けぬ
20:00に突然待機警報が発令されて、全員甲板に出た。
約1時間で解除された。
何度か同じように非常警報が出ることはあったが、この船は神に守られているのか危険にさらされることは無かった。
空にはオリオン座がきらめいていて、たまに光る波もあり、海と空が繋がっているようだった。
三月二十六日
〇、〇〇時我が駆逐艦より発射せる爆雷の音、艦内に響き渡る。直ちに待避準備をなすも異常なく通過す。
0:00に味方の駆逐艦から爆雷が発射された音が艦内に響き渡った。すぐに退避準備をしたが、特に異常は無く通過した。
三月二十七日
パラオ港に入港。
絵画の如き海、陸及び熱帯植物の美麗さには、今更ら乍ら驚きの目を見張るのみ。
昨夜の海戦に於いて、我が護衛駆遂艦は左の戦果を収めたり。
潜水艦撃沈一 捕虜一
パラオ港に入港した。絵画のような海、陸には熱帯植物が生い茂りその美しさに驚き、目を見張った。
昨夜の爆雷の音は敵との海戦だったという発表があった。護衛駆遂艦は敵潜水艦を撃沈し、捕虜を捕獲するという戦果を上げたということだった。
三月二十八日
旗艦「武蔵」の巨体を遠望す。本日は我が霞城軍旗の第四十七回記念日なり。
〇四、三〇時起床、艦上に於ける厳粛なる式典に参列す。早朝より友軍機の上空警戒を見る。
新編成完結し、川原部隊長の指揮下に入る。
司令長官が乗船する「武蔵」を遠くに見ることができた。非常に巨体の軍艦で、小さな山のようであった。
それもそのはず、艦に一面、樹木や小枝で迷彩を施し、一見島だと見間違うような姿をしていた。
異国の地で味方の巨大な艦を目の当たりにして、本当に懐かしく力強く感じた。日本の海軍の力は健在だと改めて確認し心にゆとりさえ感じた。
3月28日は山形県の隊「霞城軍旗」の第47回記念日だった。
4:30に起床し、艦上での厳粛な式典に参列した。早朝、上空に味方軍機の警戒も見えた。
新編成が完了して、川原部隊長の指揮下に入ることとなった。
武蔵は、大日本帝国海軍の大和型戦艦の2番艦。大日本帝国海軍が建造した最後の戦艦でもあった。
三月二十九日
パラオ港出航。
〇八、〇〇時淡き名残りをとどめ南海の都パラオ島を後にせり。
解説
小山の如き巨体、艦上一面に樹木や小枝で偽装し、一見陸地と見紛う姿あれが武蔵だと教えられ、異郷の涯にて友軍の巨大な旗艦を目のあたりにして、本当に懐かしく又、力強く感じた。日本の海軍は益々健在であることを改めて確認し、心にゆとりさえ感じた。輸送船にて航行中、兵士の志気を鼓舞する目的で、艦中にて募集した、歩兵第二十二聯隊第二大隊の進軍歌に応募して、第二位に入ったものを記し置くものなり。
血盟進軍歌
一、霞ケ城の旗の風
血染め桜の香を享けて
はぐくまれしや幾とせぞ
鍛練研磨の大和魂
二、数度の役の勲は
千載永く朽ちざらん
祖父が築きし歴史こそ
吾等が学ぶ武士の道
三、北鎮の勇名大陸に
無言の威圧加えたる
凍冬焼夏有六度
五道を磨く大道場
四、緑林 ゆる完達嶺
泥浜首漬く夏の陣
御旗奉じて征破せる
北鎮健児の負けじ魂
五、時しも如月月の末
大命下りし我が部隊
内より選ばる血盟に
結ぶ 六百三十士
六、腕撫す大望秋きたり
万里の荒海乗り越えて
行く血盟の雄叫びは
南十字も揺ぎなん
七、邪悪の道の輩あらば
七度び正義の矛取りて
八紘一宇帰するまで
断じてたゆまん血盟士
8:00に惜しみながら南海の都、パラオ港を出港した。
輸送船で航行する中で、兵士の指揮を鼓舞する目的で募集された歩兵第22戦隊 第2大隊の「進軍歌」に応募したところ第2位に選出された。
なおこの日、パラオに迫るアメリカ軍に対し、聯合艦隊司令部を陸上に移す為、環礁を出てダバオへ移動中、米潜水艦タニーの雷撃により魚雷1本を艦首部に受け、小破。2600t余りの浸水を許し戦死者7名、負傷者11名を出した。
Wikipedia 武蔵 (戦艦)
三月三十日
早朝より警戒警報発令され一同甲板に出る。
約一時間にて解除になる。
早朝、警戒警報発令されて皆、甲板に出た。
約1時間で解除された。
四月四日
波風高きも天気は良く晴れわたる。サイパン着は明日らしい。各人一枚宛家郷への便りを許され、一同喜びて筆を走らす。
波風は高いものの、天気はよく晴れ渡っていた。
サイパン港への到着は明日らしい。
一人1枚、故郷への手紙を書くことを許され、皆喜んで筆を走らせた。
四月五日
サイパン港入港停泊。
パラオと異なり、山の形、草木の繁茂状態等、内地の風景と良く似て居るように感じた。
我が艦に先立ち、軍艦も相当入港しあり。
解説
サイパン港に入り、停泊中に短時間であったが、上陸を許可されたような気がする。
かすかに思い出せることは、上陸したのは港の桟橋からではなく、普通の浜辺のようで、上陸地点には樹木はなく、又砂浜でもなかった。ただ、所々に低い岩盤が見えて居り、禾本科の草がまばらに生えて居ったような記憶しか残って居ない。そのことすら不確実で、全くもどかしい次第である。日誌の島の風景は艦上から遠望した感想を記したものと思う。
サイパン港に入港して停泊した。
艦から見るとサイパン島の様子はパラオと異なり、山の形や草木の生い茂り方が日本本土と良く似ているように感じた。
我らの輸送船より先に軍艦もたくさん入港していた。
いったん上陸することを許されたため、艦から浜辺に降りた。岩場のごつごつしたところであったがイネ科のような草がまばらに生えていた。
四月七日
〇七、〇〇時サイパン港出航。海は益々荒れ艦の動揺激しい。いよいよ危険区域に入る。
船倉内の梱包整理をなし、上陸準備をなす。
7:00サイパン港を出港した。海はますます荒れて艦の揺れが激しかった。
ここからいよいよ危険区域に入る。
長く生活してきた船倉の整理や身の回りの整理をし、上陸準備をした。
四月八日
〇一、〇〇時突如爆音ありて艦の動揺甚だしきを覚え眠りより覚む。
普通と異なる様子を身に感ず。急ぎ甲板に登りて海面を望めば、友軍船より火柱の登りおるを見た。その瞬間に「ヤンキー共ヤッタナッ」と云う直上感に興奮す。遂に我が輸送船一と哨海艇一は犠牲となる。
正午近くなりて「ガム」に入港す。
1:00に突然爆音がして、艦が揺れたため眠りから覚めた。
似たような状況は何度かあったが、いつもとは異なる様子を感じた。
急いで甲板に出て海面を見ると、味方の艦から火柱が登っていた。
その瞬間、純粋に敵に対する怒りが湧き上がってきた。
この攻撃で味方の輸送船1隻と、哨戒艇1隻が犠牲となった。
正午近くにグアム港に入港した。
四月九日
〇七、〇〇時ガム島出航。
益々我が艦の武運長久を祈る。
7:00にグアム島を出港した。
昨日の攻撃の件もあり、我らの艦に幸運が続き目的地に無事到着できることを祈った。
四月十日
二一、〇〇時突然敵潜水艦の襲撃を受くも異常なく通過す。
21:00に突然、敵潜水艦の襲撃を受けたが、艦に影響は無くそのまま通過した。
四月十二日
予定の時刻より二時間早く、目的地メレヨン島に到着。
一三、〇〇時より場陸開始。釜山港出航以来、実に二十九日間、敵の壼動せる太平洋を渡り、無事目的地に到着せしことは、只々神の御守護に感謝せねばならぬのである。
解説
フララップ島に上陸して一番先に感じたことは、山と川がないことであった。又、島には原住民の姿は一人も見当らない。(後で知ったことだが原住民の二〇〇名は、食料の椰子とパンの本の一番多くあるフラリス島に移住させた)どこに居っても波の音が聞えて居った。各隊の守備位置が決まるまでの余暇を利用して、海岸線を歩いて見た。
空も海も実に爽快。すべてが透き通る様な感じがする。「リーフ」(島を中心に、海の中に輪の形に出来た珊瑚礁)の内側は湖水のように波もしずかだ。浜辺一面には砂利ではなく、赤自の珊瑚の破片で、実に綺麗だ。すべてが即装飾品になるような物ばかり。若し、かりに無事に帰えれるようなことになれば、色々と集め標本を作り、小学校の教材にとも思った。足元を這う大小とりどりの貝殻をつけたやどかりが可愛らしかった。
伺時まで眺めて居ても、あくことのない極楽の島のようだ。自分が今、何んのために此の島に居るかも忘れて、メレヨン島の瞬時の幸せを満喫して居った。
予定の時間より2時間早く、目的地メレヨン島に到着した。
13:00から上陸開始した。
釜山港を出港して以降29日間、敵がうごめく太平洋を越えて無事目的地に到着したことは、ただただ神に守られたと感謝しなければならないと思った。
メレヨン島はいくつかの島からなっており、我々が上陸したのフララップ島という島であった。
上陸して一番先に感じたことは、山と川が無いことだった。
また、島には原住民の姿は一人も見当たらなかった。
島のどこにいても波の音が聞こえた。各隊の守備位置が決まるまでの時間を利用して、海岸線を歩いてみた。
空も海も実に爽快で、目に見える全てがすぐ装飾品になるような物ばかりだった。もし、仮に無事に帰れるようなことになったら、色々と集めて標本を作って小学校の教材にしたいと思った。足元をはう大小とりどりの貝殻をつけたヤドカリが可愛らしかった。
何時まで眺めていても、飽きることが無い極楽の島だ。
自分が今、何のためにこの島にいるかも忘れて、メレヨン島の瞬時の幸せを満喫した。
一方、メレヨン島に我々を輸送した輸送船は兵を降ろすと、サイパン島に戻って行った。
この途中の4月13日の17:00、輸送船を護衛する駆逐艦「雷」が敵潜水艦を発見し制圧に向かった。
しかし逆に、敵潜水艦「ハーダー」から4本の魚雷攻撃を受け2本が命中、「雷」は船体が2つに折れ、乗員は脱出を図ったが乗員も巻き込み4分程で沈没した。
「ハーダー」の艦長のディーレイ少佐はこの攻撃について"Expended four torpedoes and one Jap destroyer!" (4本の魚雷とジャップの駆逐艦を消費した!)と記し、この言葉はアメリカ海軍戦史に印象的なフレーズとして残っている。
このようにメレヨン島周辺は敵の監視下にあり、非常に危険な場所であった。
四月十五日
揚陸せし荷物の整理完了。
椰子の実、始めて食す。唯、珍らしきのみ。
陸揚げした荷物の整理がやっと完了した。
ヤシの実を初めて食べてみたが、ただ珍しいだけで美味しくはなかった。
四月十六日
我が大隊の警備すべき位置確定し、着々準備をなす。
二三、〇〇時頃夜間空襲あり、地上損害なし。
解説
此の夜は、徹夜で陣地構築をして居た時だった。爆音のような音が聞えたと思ったら、シュルシュルと云う音と同時に、辺り一面真昼のように明るくなった。ああ、これが照明弾かと思って居るうちに、南の方の海上から砲撃の音が間えて来た。飛行機で照明弾を落して、艦砲射撃の目標を知らせたのであった。これは、てっきり艦砲射撃で援護をし、上陸作戦を敢行するつもりかと思って緊張したが、二、三十分過ぎてもその気配なく、砲撃音も次第に遠のき、敵の上陸作戦ではなかったようだった。幸い島には一発の砲弾も命中しなかった。
所属する大隊の警備するべき位置が確定して、しかるべき準備を進めた。
陣地の構築は夜までかかった。23:00頃に爆音が聞こえた。次にシュルシュルという音と同時に、あたり一面が真昼のように明るくなった。
ああ、これが照明弾か、、、と思っているうちに南の方の海上から砲撃の音が聞こえてきた。
飛行機で照明弾を落として、艦砲射撃の目標を知らせたのだと察した。
これは艦砲射撃で援護をしながらの上陸作戦では無いか、と緊張が走った。
だが、2、30分しても敵が襲撃する気配は無く、砲撃音も次第に遠のいててきの上陸作戦ではなかったとわかった。
幸い、島には一髪の砲弾も命中しなかった。
四月十八日
〇九、三〇時敵機コンソリーデットB24型二十三機の空襲を受く。約四十分にて退飛す。
五機撃墜するも、我が方に左の損害あり。
第十中隊 斉藤隊長以下十名
第十一中隊 田鎖伍長以下十四名
名誉の戦死を遂ぐ。其の他重軽傷者両中隊数名宛出す。
上野美智男も遂に他界、平間辰雄重傷の報せ受く。
解説
第十中隊長斉藤豊雄氏は、小生と同年兵で幹部候補生、第十一中隊出身で、当時陸軍中尉で山形県出身。
第十一中隊田鎖伍長は召集下士官で、岩手県出身。体格の良い実に温厚な性質の持ち主であった。揚崗出発時も、志願して「ロ号」演習に参加した事が今も記憶に残って居る。
上野美智男氏は上等兵、平間辰雄氏は兵長で、共に北海道出身の現役兵。
初年兵教育時の最初の教え子である。誠に残念でならなかった。今新たに戦死された方々のご冥福を心からお祈り申し上げる次第である。
敵機退飛後、大隊本部地内にある救護班に続々と負傷者が担架で運ばれて来たが、先刻の爆撃で度肝を抜かれ、気が転倒して居たせいか、戦友の負傷を確かめ、元気づけに駆け寄る兵は少なかった。
多くの兵は、まだ戦争に対する心の準備も万全ではなく、敵影のない無人島での陣地構築は、むしろ演習のような錯角さえ起らざるを得ない状態であったが、不意の爆撃に依り、多数の死傷者を出した現実には、戸惑いすら感じて居った。
今、いよいよ戦争に突入したと云う実感に、身の引きしまる思いに血は騒ぎ、武者振るいを覚えたのも初めての体験であった。
9:30に大規模な爆撃あり。
敵の爆撃機B24型が23機襲来し、空襲を受けた。
約40分間続いたのち飛び去っていった。
敵機が去った後、大体本部敷地内にある救護班に続々と負傷者が担架で運ばれてきた。爆撃で度肝を抜かれてしまって気が動転し、戦友の負傷の容態を確かめたり元気付けたりするために駆け寄る兵は少なかった。それほどにショックが大きかった。
多くの兵は、まだ戦争に対する心の準備は万全では無く、敵の気配のしない無人島での陣地構築は、むしろ演習のような錯覚さえするような状態で気が緩んでいたことは否めない。
そこに突然の爆撃があり、多数の死傷者が出たことを現実として受け止められず、戸惑いを隠せなかった。
今、いよいよ「戦争に突入した」という実感を強く感じ、身が引き締まったことで全身に力が入り、武者震いした。
この空襲により、地上から敵機5機を追撃したが、味方にも26名の死者が出た。
重軽傷者も両中隊に数名出ていた。
[ 第10中隊 ]
斉藤隊長 死亡
以下10名 死亡
[ 第11中隊 ]
田鎖伍長 死亡
以下14名 死亡
後に、上野美智男も戦死したことを知った。
上野は初年兵の時に私が教育した最初の教え子である。本当に残念でならなかった。
上野は上等兵で、北海道出身。
名誉ある戦死であった。
第10中隊の斎藤隊長は、斉藤豊雄氏であり私と同じ歳で幹部候補生だった。山形県出身で元々は第11中隊にいた。この時は陸軍中尉。
第11中隊の田鎖伍長は召集下士官で、岩手県出身。体格の良い実に温厚な性質の持ち主であった。揚崗を出発した時も、志願して「ロ号」演習に参加した有志であった。
四月十九日
一一、三〇時敵コンソリー七機の爆撃あり。又地上掃射を受く。
今夜も徹夜にて作業をなす(陣地構築)。
昼間の爆撃に依り、救護班奥田軍医中尉及び高橋衛生伍長の両名戦死す。
解説
奥田軍医中尉は、山崎部隊の高級軍医で奥田敏夫氏のように記憶がかすかに残って居るだけで、お名前は確実とは申せず、又、ご住所も覚えて居らず、申し訳ないと思って居る。又、高橋伍長もお名前及びご住所は存じていないが、山崎部隊救護班に勤務中であった事は確実である。
同日は、両官共医務室にて医療業務中であった。空襲警報を受け、直ちに避難したのであったが、余りにも急であったので、自分の待避壕まで行くことが出来ず、一人用の壕に二人で入り、落下して来た爆弾の直撃を受け、名誉の戦死を遂げられたとのことであった。
戦場に於いて一番頼りになる医療関係者を同時に二人も失ったのである。
他の兵科のように簡単に補充が出来ないので、部隊としても最大の損失であった事は申すまでもなかった。
こゝに戦争の悲惨さを改めて嘆くと共に、ご両名のご冥福を深くお祈り申し上げる次第である。
11:30に再び爆撃機B24型の爆撃があった。
地上に向けて機関銃でなぎ払うような射撃を受けた。
今日も陣地を構築するため徹夜での作業となった。
昼の爆撃によって、救護班の奥田軍医中尉と、高橋衛生伍長が死亡した。
奥田軍医中尉は、山崎部隊の高級軍医で奥田敏夫氏である。
山崎部隊の救護班の勤務中に、医務室にて医療業務中に空襲警報が鳴りすぐに避難した。しかし、あまりにも急であったため決められた自分の待避用の防空壕まで行くことができず、一人用の防空壕に二人で入り落下して来た爆弾の直撃を受け即死だったと思われる。
軍医という役割は、他の兵と違い簡単に補充ができないので、部隊として非常に大きなの損失だ。
戦争の悲惨さを痛感する出来事だった。
ご両名の冥福を深く祈った。
四月二十三日
我が新鋭機二十三機着陸す。定期空襲ありたるも、友軍機及び地上火器の目覚ましき活躍に依り非常に心強く感ず。
我が軍に、新鋭機が23機着陸した。定期的な空襲はあったが、味方の戦闘機や、地上からの対空砲等の火器が活躍しており、非常に心強く感じた。
四月二十四日
例の空襲は一時間早く来たり。我が上空に至り数発の爆弾を投下す。経理室わきの地下に埋没しある。ガソリン入ドラム缶に点火し、大火災を起こす。約二時間にて鎮火す。
解説
地下に埋られて居たガソリンは、航空機用燃料であったと思う。火災を起こすまでは、此処にガソリンが埋られて居ると言うことは全く気付かなかった。
油火災は実に物凄いものであった。次々と爆発音と共にドラム缶が二、三十米も高く飛び上がる様には、全く恐ろしさを感じた。そばに近よることも出来ず、手のほどこしようもなかった。若し、これが夜間で、無差別爆撃であったなら、敵のよい目標になったことであろうが、幸いに定期的爆撃であったので、その心配はなかった。
空襲は常態化し、ほぼ同じ時刻に襲来した。
今日は1時間早かった。
敵戦闘機が上空に到達すると数発の爆弾を投下した。
この爆弾が経理室の脇に着弾すると、大きな爆発が起こり大火災がおきた。
次々と爆発音とともにドラム缶が2,30メートルも高く飛び上がり、非常に恐ろしい映像だった。
後にわかったが地下に埋めてあった航空機の燃料用のガソリンが入ったドラム缶に引火したのだそうだ。
火災を起こすまで、そこにガソリンが埋められているとは全く気づかなかった。
ガソリンによる火災はものすごい勢いだったが、約2時間かかったが火を消すことができた。
火災は近くによることもできず手の施しようも無かった。もしこれが夜間の無差別爆撃だとしたら、この爆発の光が敵の格好の目標になっただろう。
日中の定期的な爆撃であったことは不幸中の幸いだった。
四月二十五日
第十中隊岩崎小隊より、本日の戦闘に於いて戦死七名、負傷者六名を出す。
解説
第十中隊は四月十八日、中隊長以下十名の戦死者を出し、又、此の度も七名の戦死者と六名の負傷者を出す惨事を招いたのである。話に依れば、食事中の出来事だったとか。誠にいたましい次第である。
一ケ所に大勢が集まると言うことは、最大の被害を招くおそれがあることを痛切に感じた。戦死なされた方々に哀心よりご冥福をお祈り申し上げる次第である。
第10中隊の岩崎小隊にて、今日の戦闘で戦死者7名、負傷者6名と報告あり。
第10中隊は
4月18日に中隊長以下10名の戦死者を出したが、本日も多くの死傷者を出す惨事を招いた。聞いた話では、食事中の出来事だったということだ。非常にいたましい。
一箇所に大勢が集まると多くの被害を受けることを痛切に感じた。
戦死なされた方々に心の底からご冥福をお祈りした。
四月二十六日
満二十六歳の誕生日を意義深き第一線の露営地にて迎う。
26歳の誕生日を迎えた。
この第一線の戦地で迎えることは意義深いことだ。
五月二日
大隊本部指揮班長、鈴木猶四郎曹長は本日より第十中隊附を命ぜられる。
解説
再度の直撃を受けた第十中隊は、将校、下士官に極度の不足を来たしたので、其の補充として此の度、鈴木曹長に転勤命令が出されたようである。
大隊本部指揮班長の鈴木猶四郎曹長が、今日から第10中隊に付く命令を受けた。
4月25日に再度襲撃を受けた第10中隊は、将校も下士官も非常に足りなくなったため、その補充として鈴木曹長に転勤命令が出されたのだろう。
五月五日
端午の節句なるも野戦のことにて伺事も行わず。本日より菅原軍曹の業務を申し受く。
今日5月5日は端午(たんご)の節句だが、この第一線では何も行わなかった。
今日から菅原軍曹の業務をサポートすることになった。
五月十五日
一時中止せる敵機来る。重爆六機、中爆三十五機。
解説
最初に空襲を受けたときは、まだ恐ろしい感じは起こらなかった。頭上に飛来、投弾する様子を眺めて居た若い兵士も居った。だが、爆弾の炸裂時に於ける爆風や弾痕の物凄さを身を以って感じ取って始めて爆撃の恐ろしさがわかるのである。
対空戦闘に於ける一般歩兵部隊の陣地構築は、主として自己の安全を守ることが第一の目的であったようだ。最初、分隊毎に避難する掩蔽壕の構築に全力を注いだ。
空襲警報が発令されると各所で作業をして居た兵士達は、一勢に自分の分隊の掩蔽壕に入り、毛布を頭からかむり、ロを半ば開き、耳穴を指で塞ぎ、爆風の被害を最少限に止どめる動作を義務づけられて居った。
爆撃機の飛行音が近ずき、爆弾の落下音が非常に短かいか、全く聞えない場合は、至近弾で、最も危険であった。爆撃の日が重なるにつれ、壕内での避難の苦しさが増して来る。
一週間目位いが最高の苦痛であった。胸の中を決ぐられるような痛みを覚えたのもその頃であった。
いくら生命を国に捧げる教育を徹底して受けたとは言え、まだ若い生身の人間である。散兵線での戦闘なれば、自分も敵を殺せる機会がある。又気持が殺気立って居るから、死の恐怖が湧かない。だが、対空戦闘はそうではない。歩兵が小銃で幾ら発射しても、敵機にとどく筈がない。壕外に出て、幾ら力んでもはじまらない。避難して兵士の損耗を防ぐ事が勝利につながるのだ。だが、避難して居る二十分か三十分の時間が全く辛いものであった。無抵抗で殺されるのをじっと待って居るようなものだ。空襲解除になって壕外に出て見ると必らず、被害を受けて居った。それ程島の面積がせまかつた。
爆撃も一日一回、定期的であったので、空襲解除になると、翌日の同時刻までは生命が保証されたと安堵したものであった。
度び重なる爆撃の経験で、分隊毎の避難壕では、一発の爆弾で大勢の戦友が斃れるおそれがあることを知り、個人毎の掩蔽壕を作るように命ぜられ、十米位いの間隔で一人用の壕(蛸つぼ)を掘った。最初のうちは一人で壕に入ることは、とても心細く感じられた。
敵機の爆撃が数日間無かったが、この日、重爆撃機が6機、中爆撃機が35機、襲来した。
4月に上陸し、最初に空爆を受けたときは、まだ恐ろしさはそれほど感じなかった。
頭上に襲来した敵機が爆弾を落とす様子を眺めているような若い兵士もいたほどだ。
だが、爆弾が炸裂する時に起きる爆風を感じたり、爆発の跡のものすごさを実際に見ることで、はじめて爆撃の恐ろしさがわかるのである。
対空戦闘における一般歩兵部隊の陣地の構築は、主に自分の安全を守ることが第一の目的だった。分隊ごとに避難する防空壕の構築に全力を注いだ。
空襲警報が発令されると、各所で作業をしていた兵士達は、一斉に自分の分隊の防空壕に入り、毛布を頭からかぶって口を少し開き、耳穴を指でふさぎ、爆風の被害を最小限にする動作を義務付けられていた。
爆撃機の飛行音が近づいてくる。この時に「爆弾の落下音」が非常に短い場合や、逆に全く聞こえない場合は、かなり近いところに着弾する。最も危険な場合だ。
爆撃を何度も受けると、防空壕内での避難の苦しさが増して来る。
最初の爆撃から一週間ほどが最も苦痛であった。胸の中をえぐられるような痛みを感じた。
命を国に捧げる教育を徹底して受けていたが、まだ若い生身の人間である。
地上での兵と兵の戦闘であれば、自分も敵を殺せる機会がある。また、気持ちも殺気だっているから、死の恐怖も沸かないだろう。
だが、対空戦闘はそうではない。歩兵が小銃でいくら発射しても、敵機に届くはずが無い。防空壕外に出て、いくら力んでもはじまらない。
避難して兵士の消耗を防ぐ事が勝利につながるのだ。逆に、勝利に貢献するためにできることはそれだけなのだ。
だが、避難している20分か30分の時間が非常に辛かった。無抵抗で殺されるのをじっと待っているようなものだ。
空襲解除になって防空壕の外に出てみると必ず被害を受けていた。それほど島の面積が狭かった。
爆撃も1日1回と定期的だったので、空襲が終わると翌日の同じ時間までは命が保証されたのだ、と安堵した気持ちになった。
度重なる爆撃の経験で、分隊ごとに大きな防空壕に避難すると1発の爆弾で大勢の戦友が戦死する恐れがあるため、個人ごとに小さな防空壕を作るように命じられていた。10mくらいの間隔で1人用の防空壕(タコツボと呼んだ)を掘った。最初のうちは1人で防空壕に入ることはとても心細く感じられた。
五月十六日
予想せる敵機来らず。
午後参謀長の陣地視察あり。
この日も爆撃があるだろうと予期して備えていたが、敵機は現れなかった。
午後に参謀長の陣地視察があった。
五月二十日
暫らく振りにて野戦風呂にて入浴す。
〇常夏に春もあるらし雨の朝
新芽ふき出す爆撃のあと
〇新戦場ドラム缶の露天風呂
解説
爆撃も一ヶ月も続くと慢性になり、恐怖感も薄らぎ、度胸もつき、余程気楽になった。今まで身体を洗う等という気持は起こらなかったが、誰れが考え出したともなく、ドラム缶に湯を沸かし、入浴することを覚えた。
丁度、爆撃で出来た弾痕の池のそばに露天の風呂場を作り、清水のようなきれいな池の水を汲み、湯を沸かし、入浴を楽しんだ。高雄港で水浴以来のことで、かぞえて見ると実に二ヶ月以上も入浴をして居ないことになる。
メレヨン島も常夏の国にて、四季の移り変わりが全くわからない。特に草木に変化を見出すことは出来なかったようだ。
爆弾の炸裂した破片は、大きなもので三十糎から六十糎位いの両面にギザギザの刃がついた刀のようなものが横なぐれに物凄い勢で飛んで来て、樹木を薙ぎ倒し、枝葉を落してしまう。全く恐しい威力がある。
昼尚薄暗い密林も一瞬にして、無残な枯野原と一変する。だが、毎日のスコールと強い日差しで、一週間もすぎると緑色の新芽を吹き出して来る。
その時は実に新鮮な春を思わせる風景だった。
久しぶりに野戦風呂で入浴した。
爆撃も1ヶ月も続くと慣れてきて恐怖感も薄らぐものだ。度胸もついてきて気分も楽にはなった。今まで身体を洗うなどという気持ちは起こらなかったが、誰が考え出したともなくドラム缶を運んできて湯を沸かした。
ちょうど、爆撃でできた池のそばに露天の風呂場を作り、思いの外綺麗だった池の水を汲んで湯を沸かし、入浴を楽しんだ。
高尾港での水浴以来のことで、思い返すと実に2ヶ月以上も入浴をしていないことになる。
メレヨン島は常夏の島で、四季の移り変わりが全くわからない。特に草木の変化から季節を感じることができなかった。
爆弾が炸裂した破片は、大きなもので30cmから60cmくらいの両面にギザギザの刃がついた刀のような形をしていた。爆発と共にものすごい勢いで飛んできて、木々をなぎ倒して枝葉を落とした。非常に恐ろしい威力がある。
昼でも薄暗い密林も一瞬にして無残な枯れた野原に変えてしまう。だが、毎日のスコールと暑い日差しで、1週間もすると緑の神明が吹き出して来るのだった。
それは実に新鮮な春を思わせる風景だった。
六月十六日
身体だるく、盗汗、胸痛を覚えるを以って、診察を受く。其の結果、「右湿性胸膜炎」と言う病名にて、絶対安静を命ぜられる。
身体がだるく、寝汗をかき、胸の痛みがあったので診察を受けた。
その結果「右湿性胸膜炎」という病名だと診断され、絶対安静を命じられた。
胸膜炎とは肺の外部を覆う胸膜に炎症が起こる病気である。
六月二十日
〇鎌桔梗 鎌桔梗 花の咲かない鎌桔梗
此の句は自分にもはっきり解せぬ句なり。
果たして、今の世に鎌桔梗なる植物があるだろうか。しかも、此の句は、自分が夢で詠んだのだから、古人の句をまねたのかも知れぬ。此の句を夢に見た時の心境は、メレヨンの戦場に銃をとり、ご奉公の一念に、血をたぎらせて居るとき、戦友が次々と病魔に犯されて永眠する様を嘆き悲しんで詠んだことはたしかなり。それが夢でだから、お面白いと共に奇なるところもあると思い、一筆記し置くものなり。
解説
此の時期に於ける戦病死者は、〇、八%乃至一、二%で、主食も五〇〇グラム位いは支給になって居たので、栄養失調症に依る死亡ではなく、アメーバ赤痢かデング熱に罹病した体力の弱い兵だったと思う。
「鎌桔梗 鎌桔梗 花の咲かない鎌桔梗」
この句は自分にもはっきり理解できない句だ。
はたして、この世に「鎌桔梗(かまききょう)」という植物があるだろうか。
この句は自分が夢の中で詠んだ句だ。
夢の中であるから、もしかしたらどこかで聞いた句を真似たものかもしれない。
この句を詠んだ夢で私は、メレヨン島の戦場で銃を持ち国のためと懸命になっている時に、戦友が次々と病魔に犯されて亡くなっていく様子を嘆き悲しんでいた。
興味深いと共に奇妙なこともあるなと思って書き留めた。
しかしそれは夢の中のことだ。
現実には、体力の弱い兵がアメーバ赤痢やデング熱に感染して死亡したと伝え聞いていたことはあったが、それはごく一部の兵だ。
十分とは言えないが食料も配給されている。
自分の身体が弱ると変な夢を見るものである。
この時、890km程北に位置するサイパン島付近では「サイパン島の戦い」「マリアナ沖海戦」が発生している。
「サイパン島の戦い」ではサイパン島の日本軍は全滅し、南雲中将が自決した。「マリアナ沖海戦」では空母3隻と搭載機のほぼ全てに加えて出撃潜水艦の多くも失い壊滅的敗北となった。これにより西太平洋の制海権と制空権は完全にアメリカが掌握した。
また、「北に位置する」ということからわかる通り、メレヨン島(現、ウォレアイ環礁)よりも日本に近い位置での戦いである。メレヨン島は戦略に重要な島とはされず、上陸した日本軍の動きを止めておくだけの、実質放置状態であったようだ。
[サイパン島の戦い]
サイパンの戦い(サイパンのたたかい)は、第二次世界大戦中、1944年6月15日から7月9日に行われたアメリカ軍と日本軍のマリアナ諸島サイパン島における戦闘。斎藤義次中将が指揮する第43師団を主力とした日本軍が守備するサイパン島に、ホランド・スミス中将指揮のアメリカ軍第2海兵師団、第4海兵師団、第27歩兵師団(英語版)が上陸し、戦闘の末に日本軍は全滅した。このサイパンの戦いにともない、海上ではマリアナ沖海戦(6月19日〜20日)が発生した。
[マリアナ沖海戦]
マリアナ沖海戦(マリアナおきかいせん)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)中の1944年6月19日から6月20日にかけてマリアナ諸島沖とパラオ諸島沖で行われた日本海軍とアメリカ海軍の海戦。アメリカ軍側の呼称はフィリピン海海戦(Battle of the Philippine Sea)である。日本側の作戦名はあ号作戦、アメリカ側の作戦名は、海上作戦を含むサイパン島攻略作戦全体についてフォレージャー作戦(「掠奪者作戦」の意味)と命名されていた。
マリアナ諸島に侵攻するアメリカ軍を日本軍が迎撃した本作戦では、日本はアウトレンジ戦法による航空攻撃を行うが、アメリカから「マリアナの七面鳥撃ち(Great Marianas Turkey Shoot)」と揶揄される壊滅的敗北(空母3隻と搭載機のほぼ全てに加えて出撃潜水艦の多くも失う)を喫し、空母部隊による戦闘能力を喪失した。マリアナ諸島の大半はアメリカ軍が占領することとなり、西太平洋の制海権と制空権は完全にアメリカが掌握した。
七月八日
〇さらさらと小風吹く夜に東南の
薄雲破りて月が出た
真暗なメレヨンも月の光に照らされて
夢見る姿を現わした
可愛いちいさな夢姿
夢に笑顔を見るような
可愛い可愛いやや子島
七月十二日
海軍の病院船入港。久万振りの友軍船の入港にて、全員の喜びは如伺ばかりか。たとえようなし。但し、吾れに一塊の心痛あり。
予想せる如く、夕刻吾れに内地送還命令が下らんとして居る情報を耳にす。これ一大事ならんと、人事係、軍医、部隊長に願い出で、内還を取り下げてもらう。
吾れ戦場に死するの他、いづこに墳墓の地あらんや。
〇日に幾人か散り行く戦友の勲は
靖国の花と咲きかおるらん
解説
朝起きて見ると、胸が苦しく息をつき合せることが困難になり、早速、大隊本部警備地内にある医務室(野外)で田原軍医殿の診察を受く。その結果、右湿性胸膜炎と診断され、胸部の水液を抜き取ってもらう。水液抜き取り後は、非常にらくになった。二回位い抜き取りを行ったような記憶がある。
此の病気は安静が一番とのことで、絶対に治せる自信があったので、そんなに心配はして居なかったが、薬品がなかったので、身体を休めるだけの療養では、そう簡単に快方に向かう筈はなかった。
約一ヶ月近く過ぎた頃、海軍の病院船入港で、内地送還の話が出た。まだ命令は出されなかったが、小生も該当者にあげられて居った。
第十一中隊の井出良雄氏(北海道出身の現役兵)もその中に含まれて居った。
一時、サイパンの陸軍病院に入院し、その後内地送還の予定だそうだ。命令が出されてからでは、取り返えしが出来なくなる。その前に何んとかしなければならぬと先ず最初に、人事係の阿部准尉殿に懇願したが、人事係だけでは決めかね、軍医及大隊長の許可が必要となり、誠意懇願をなし、ようやく許しを得て、本当に安堵した。
此の時点に於いて自分の運命に一大転換を来たすとは、神ならぬ身には知る由もなかった。
後日知ったことだが、此の時、サイパン島はすでに玉砕。海、陸、空共に敵の手中にあって、接岸不可能な状況であった。其の後の詳しい情報は聞いて居ない。井出良雄氏の消息も不明である。死を覚悟して島に残ったことが、生につながったことを神に感謝しなければならぬのである。
七月二十五日
療養のため「マレヨン」療養所に入院を命ぜられ、早朝出発す。
療養所のあるマレヨン島は、本島フララップ島の北西に位置した小さな島である。
マレヨン島には、山崎部隊第十二中隊(桑江隊長)と砲兵一個中隊、機関銃一個小隊が警備にあたって居った。
〇ギャッギャッとやもり鳴く夜の蕃舎かな
〇汗ばみて寝がえりうっ夜の蕃舎かな
〇夢さめて見上ぐる空に十字星
解説
マレヨン島は、メレヨン島のうちでも比較的小さな島で、爆撃も極めて少ない、静かな島であった。
療養所とは名ばかりで、医療機関が完備されて居るわけではなく、椰子の葉の屋根で、六十糎位いの高床の小屋が三、四棟、患者用に準備されて居る程度であった。
此の療養所で四十三日間も闘病生活を送ったのである。或る日、旅団司令部の高級軍医の巡視があって、患者全員の診察が行われたことがあった此の時の高級軍医が鈴木武一郎氏で、軍医大尉、山形県出身で、山形メレヨン会の会長を永らく勤められ、公私共に一方ならぬお世話になった方である。
又、桑江隊長は、桑江良逢氏で沖縄県出身の将校である。
八月十二日
椰子の実を割れる程元気になった吾が姿、だが腕をさすれば肉は淋みしき位いに落ちたが、闘病のために使ったことを思えば致し方のないことだ。今や吾が体内に巣くう悪魔征服の機近し。喜悦の劃歌も今幾日ぞ。
〇葉折れせし蕃舎の前の椰子の本に
月のかかりて青自く照る
九月六日
本日正午、晴れの退院を命ぜられ、午後定期便にて帰隊す。大隊長以下の元気なる姿を目前にして満足をなす。入院四十三日間にて隊内も見違える程に美化されておった。しばし、故郷に帰えったような感にひたる。
九月七日
一日二食の食事故、昼は各班毎に自活にて補ぎなわねばならぬ。それで、腐れ米を粉にして、本の葉を混入し、それをだんごになし茄でたものを各人二個宛支給され、一同喜びて食す。
解説
「褒れ米とは」
四月十二日、メレヨン島に上陸した時、資材及び糧林等をフララップ島の海岸に揚陸し、野積みにしておったのを、四月十八日の空襲に依り、各隊に支給した。当座の食糧を除いた残り全量が爆破された。
殊に精米は焼米となり、土中に埋没されたまま、四、五ヶ月も放置状態のため、毎日のスコールや日中の高温で、土中で炭のように真黒く変色してしまった。少しでも食糧があるうちは、食用になるとは考えたことはなかった。
糧林が野積みにされた場所は、工兵隊の警備地内であったと記憶して居る。各隊の食糧も底をつく頃、誰れが思いついたのか、土中より掘り出し水洗いし、土と米を選別し、それを粉にして、だんごのように練り丸め、如でて食用にした。半ば炭化して居ったので、簡単に粉にすることが出来た。最初のうちは自由に掘り取っていたようであったが、後に旅団司令部で規制して、掘り取りを許可したように覚えて居る。
九月八日
大詔奉戴日 〇六、〇〇時、単独の軍装にて参列。
当時を思いおこし覚悟を新たにす。
解説
軍隊生活の経験のない方々のために、軍隊の日常生活と服装等について薄れ行く記憶を辿り乍ら其の一部を記して見よう。
単独の軍装とは、略式の儀式や命令に依る転勤や着任の挨拶、進級等上官に対して行なう申告などの時に整えるべく定められた服装の基準である。
平時、軍隊では一装、二装、三装の各被服(軍服、襦祥∧下着∨帽子、編上靴等)を支給されて居ったが、各中隊の方針に依って、一装用の被服は被服係(下士官一名、助手として上等兵一名)が被服倉庫に保管して置く場合が多く、着用の必要に応じて出し入れして居ったようだ。陸軍の服装には完全軍装、単独の軍装、徒手などの区別があった。
完全軍装とは、戦争、事変、大演習、その他重要な儀式等の場合に整える装備及び服装で、被服は一装用着用で、背のうには肌着、日用品、食糧等を詰め、外部には個人用天幕、円匙、十字鍬、飯金、外套(夏期は雨合羽)、鉄帽を附し、兵器は小銃及び帯剣、弾入れは前に二個(前金)、後に一個(後金)を帯革に通し、其の中に実弾(演習時には空砲)、前金二個に六〇発、後合量個に六〇発を詰め込むので、携帯する物の重量は二十キログラムにもなったと思う。
単独の軍装は、初めに述べたような時の服装で、一装か二装の服を着用し、編上靴をはき、巻脚祥を巻き、弾入れを除いた帯剣をつける。単独の軍装でなく、徒手帯剣と示された場合は、巻脚祥を巻かない。又、普通の集会やちょっとした見学等の場合は、徒手営内靴(短靴)着用の指示がある。その場合は、帯剣及び編上靴は着用しない。
軍隊の日常生活から軍務一切は、各種典範令(軍隊の六法全書のようなもの)に示されて居るので、其の通り実行すれば間違いはないのであるが短期間に全部の典範令に目を通して、それを記憶することは、先ず不可能に近かった。
上官や古参兵(二、三年兵)達は、箸の持ち方からボタンのかけ方まですべて一回は丁寧に教えてくれる。後日、いろいろ質問された場合に、「知りません、わかりません」などと答えると、ビンタ(平手打)が飛んで来る。質問されてわからなければ、必ず「忘れました」と言わなければならなかった。一度教えられたのであるから、わかりませんでは通らない
のである。忘れたと言うことには、割と寛大であったようだ。
軍隊は要領良く、立ち廻った者にはかなわない。だが、中には要領よくと、狡るいと云うことを取り違えて居る者も居ったようだ。永年多くの兵を扱って居る上官には、一見してわかるのである。要領よく立ち廻れない者は、実直が何より大切である。少しおくれるかも知れないが、最後には必ず認められ、進級にもつながって来るようであった。軍隊生活には辛い
ことも多いが、又楽しみや希望もあったようだ。
本当に辛いのは、第一期検閲までの三ヶ月の教育期間だけで、其の後は隊内の様子も次第にわかって来るので、たいしたことはない。此の期間に地方の習慣や言葉の訛りなども完全に取り除かれ、軍隊と云う型にむりやり嵌め込まれるのである。
次の新しい兵が入隊して来ると、直ちに二年兵殿(途中で新兵が入隊して来ると前期兵殿)と殿がっくようになる。 一度に二つも二つも歳を取ったように錯覚する。
新しく入隊して来る兵は、年令に関係なく、子供のように見えるものである。苦労が多ければ多い程、軍人としての磨きのかかった、人格と重量感が出て来る。又、三年兵ともなると、もう神様だ。上げ膳、据え膳、身の廻わりのことなども初年兵や二年兵がやってくれる。人気の悪い下士官や将校より待遇が良い位いだ。怖いものは何もなくなる。 一度戦地で働い
て来た古参兵は、下士官や将校にも一目おかれて居るようであった。
初年兵当時は実に腹がすく。尤も起床から消燈までは便所に行く時間の他は、自分の時間は全くなく、どこに行くにも、何をするにも駆け足。独楽鼠のように、動き廻らねばならなかったから当然のことであったろう。二、三年兵になるとだんだん腹も定まり、一人分の飯も半分位いで満腹を感ずるようになる。
夜間演習や教練、学科などの激しい時期は腹もすき、身体は綿の如くつかれる。夜間教練などでおそく床に入ろうとすると、毛布の間に飴巻きや羊かんなどが置かれて居ることがある。その時の嬉しさは、伺んとも言い表わしがたい喜びであった。隣に寝て居る古参の戦友が入れてくれたことは直ぐわかる。他の兵士達の耳がすぐそばにあるので、お礼の言葉もかけることは出来なかった。頭から毛布をかむり、音を出さぬように、頬を伝わる涙と共に、時間をかけて食べた。辛く懐かしく、胸のうずくような思い出がある。
戦友には兄弟以上の親しみを感ずる。だから、戦友の身の廻りの世話(上に洗濯、靴磨き)等を手伝うことは何んともなかった。他の班の古参兵から動作や言葉づかい、その他些細なことで文句を付けられた場合などに、自分の初年兵を庇って、取りなしてくれるのも戦友であった。
軍隊の人間関係は、決して世間の風評のように、虐待のるつぼのような暗い面ばかりではなかった。男ばかりの世界だから、殺風景なことは確かにあっただろうが、温かい血に勝る信頼と人情の祥は、他の社会より幾倍も強かったと思う。中隊長を父、内務班長を母、各将校下士官は叔父、古参兵は兄、初年兵は弟と厳格なうちにも、親しみのある家庭の雰囲気を感ずることもあった。
以上、あまりにも軍隊を美化するようなことばかり書き並べて誤解を招くおそれもあるが、決して美化するのではなく、皆さんの父や夫、或は子弟の方々も、此のような環境の中でご奉公なされたのであることを信じられて、幾らかでも心の慰めになればと思い、真実を申し述べた次第である。
九月十五日
戦場に人禽なしとは、よく言われし言葉なり。
まして我が戦場は、周囲一里足らずの小島なるため、ほとんどそれすら求めることは不可能なる現況なり。
渡島半才漠なる感多し。なれど吾等は然らず、雑然たる浮世より遁世せる行者の如く泰然たり。椰子を倒し、土を掘り、己れが住むべき孤庵を作り日夜の激務の余暇に憩えることこそ、実に幸福なるを知るべし。
家郷を忘れ、自己を滅却して、只管国を思える心境に至りしことを絶大なる喜悦とせねばならぬのではないか。
九月十九日
本日も病める山辺上等兵を見舞う。丁度朝食時だったので、箸を取りロ中に入れ食せしむ。脈拍を検するに確実なり。
解説
山辺二郎上等兵は北海道出身で、大隊本部勤務中、アメーバ赤痢及戦争栄養失調症で療養中であった。
連日の爆撃に其の都度逃げ廻ることのないようにと、糧林倉庫用に作られたカマボコ型のコンクリート製の構築物内に収容されて居った。此の倉庫は、爆弾の直撃以外は絶対安全な場所であったので、患者も安心して療養に専念することが出来たようであった。
九月二十一日
〇三、四五時遂に山辺二郎君は永眠せり。
安らかに姉崎上等兵に看とられて逝ったのである。衷心よりご冥福をお祈りする。
〇七、〇〇時阿部准尉殿以下七名は埋葬のためヤグルガライル島に出張す。
食糧不足の折りにて本日より、一人一日定量一八五グラム、特別増量として一五グラム、計二〇〇グラム。一日二回に分けて支給されることとなる。戦場のことなれば一同、日頃の訓えを旨として、不平不満なく、尚一層ご奉公に邁進す。
解説
阿部准尉は阿部宗吉氏で、山崎隊本部の人事係で山形県出身。
姉崎上等兵は姉崎岩吉氏で、大隊本部勤務の召集兵で北海道出身。
平時に於ける陸軍部隊の主食の定量は、一日八七〇グラムであるが、昭和十九年七月一日より九月二十日迄の間、メレヨン島守備部隊に於いては遂次減量となり二四〇グラム、九月二十一日より十月二十日の間は二〇〇グラムと、平時の四分の一にも充たぬ量であった。血気さかんな若者だけに、食糧の不足には全くこたえたようだがヽ食糧の不足して居ることを知り、成るべく永く食い延さなければならぬことを自覚して居ったので不思議な位い不平不満を言う者はいなかった。
九月二十七日
久方振りにて鈴木(猶)曹長来隊。至極元気なり。
本日の命令にて、七月二十一日付きを以って曹長に進級せる旨伝達された。
解説
昭和十三年徴集兵の同期の軍曹全員が、曹長に進級と決定してからニケ月近く過ぎた日に進級の伝達を受けたのである。
九月二十八日
進級下士官の大隊長に対する申告あり。
解説
此の時の指揮者は同期の菅原留次曹長であったと思う。
九月二十日
本日の命令にて、椎名曹長は第二中隊附きを命ぜられる。長い間労苦を共にせし同官なれば、たとえ同じ大隊内でも離ればなれになるのは、伺んとなく心淋みしいものだ。
第一中隊小針伍長は本日附きにて大隊本部附きを命ぜられた。
身体の調子もようやく小康を得たようだ。ずいぶん永い間の休養であった。
本日にて丁度百七日も経過して居る。明日より漸進的に業務に就くつもりなり。絶対再発せぬように気を付けねばならぬ。
解説
小生がマレヨン島で療養中に中隊の固有名が左のように変更になって居った。
第九中隊が 第一中隊に
第十中隊が 第二中隊に
第十一中隊が 第二中隊に
第十二中隊が 第四中隊に
十月六日
本日より事務室に出て、命令整理を担当す。
永らく休みたる後なれば、思うように進まず。
十月八日
大詔奉戴日にて、大隊は滑走路東端に集合し、奉読式を実施す。式終了後表彰式あり。
本部より阿部曹長、水田軍曹、姉崎上等兵の三名に表彰状が授与された。又、第三中隊安部紀三曹長も表彰された。無二の戦友なれば何んとなく鼻高し。
解説
大詔奉戴日とは、昭和十六年十二月八日、我が国が米英両国に対し戦いを宣したとき、宣戦の詔勅を発せられた日を記念日としたものである。部隊では、毎月の八日を大詔奉戴日と定め、各大隊毎に集合して、尚一層大御心にそい奉るよう、誓いを新たにする日である。又、勤務良好なる下士官兵に対する表彰式も併せて行われた。
阿部曹長は、阿部荘市氏で昭和十二年徴集兵で、大隊本部附き山形県出身。
水田軍曹は水田力蔵氏で、召集下士官で大隊本部附き、北海道出身。
安部曹長は現在小林紀三氏で、同年兵第三中隊附下士官で山形県出身。
同氏とは入隊して軍隊生活の西も東もわからぬ一つ星の時代より同じ班で寝食を共にした戦友で、最も気の合った憶い出のつきぬ仲である。小生も同様であったが、同君は決して目立つ人ではなかったが、小生達の真似の出来ない、すぐれた性格の持ち主でぁった。何事にも実直で、誠意を以って実行し、人に恨みを買うような二枚舌は使わなかった。心の奥底には堅い筋金が一本とぉっていて、不正には絶対妥協をしない、強い意志を持って居った。とにかく同君とは、どんなに永く付き合っても、少しも飽きの来ない稀れに見る人格者であった。
十月十日
「守備六ヶ月間をかえり見て」
十月に入ってめっきり暑くなったようだ。話によれば、来月ぁたりは最も暑くなると云う。満洲育ちの吾れ吾れには、実に耳新しいことばかりだ。
今日の太陽も相変らず焼けつくようだ。
昨日移植した自菜も生気を失いたる如く萎えて居る。
南海の孤島、メレヨン島に上陸して早や半年。ニケ年間の糧林と〇、〇〇〇名の兵員を乗せ、一ヶ月余も敵の壼動せる南海をさ迷い乍らも、無事吾等の任地メレヨン島に上陸したのは四月半ばであった。
其の後二回にわたる輸送船の入港に依り、多少の糧食は補給されたるも、連日の爆撃と続く降雨に依り、其の過半数は灰儘と化し、又、腐敗せしむるの止むなき状態に立ち至ったのである。残りし糧林は現地物資と合わせても七月迄もあれば良い方であった。
補給困難は戦場の常にて、待てど暮らせど糧食補給の輸送船は当島に姿を現わさず、「リーフ」に砕ける黒潮の音のみ姦しく耳を打つ。
日増に陣地構築作業は、要求度を増され、夜を徹する激動は続けられた。
いよいよ糧食不足に伴い、七月二十日以降は定量を食するを得ず、減食命令発令され、王食八七〇グラムを四四〇グラムに、八月十日より三六〇グラムに、八月二十日以降は二九〇グラムに、十月二十日以降は一〇〇グラムと云う想像もつかぬ節米を実行しなければならぬ現況に至ったのである。減食実施糧食延長に伴い、日課の一部改正を見るも、壮年者のことなれば、次第に苦痛を感じ、栄養不足より来る脚気及び戦争栄養失調症等のあらゆる諸病連発し、戦病死の止むなきに至る戦友も日に一人、二人と増加し戦闘に依り斃れる者より遥かに其の数の大なるを見るに至る。
上師の悩み如何ばかりなるか。現地物資の利用も叫ばれたるも、地図にも現われざる小島にて其の数及び種類等も知れたるもの。椰子及び「パンの本」等も大半は爆撃に依り倒され、残るのは本の葉、草の根のみとなる。
幸いに野菜の種、少量確保しありたるを各隊に分配し、耕地不適の地なれば、内地野菜の新鮮なるものを得るも主食の代用になる程もなく、然れども意を屈する事なく、胡瓜、南瓜等の移植及び切り差し等に依り、種苗の確保に万全を期する如く努力をなす。
一方、各隊毎に魚携班を編成し、海幸を求めたるも其の成果は一部の部隊のみにて、他は重患のスープに供する程度に止どまりぬ。窮すれば通ずとか。誰れから始められたか、平時ならとても家畜さえ食せざる、腐敗せる米を上中に埋没しあるを掘り出し、良く洗い、粉となし、だんごを作り、主食の補いとなせり。
然れども人数多数なれば、如何に節しても長続きする訳もなく、度び重なる減食は、常人を半病人の如く弱らせたり。だが、作業及び教育訓練は以前に増し猛烈を極む。
皇軍魂は決して、これしきの困難、労苦、飲乏にて、止どまるものにあらず。
益々意気は昂揚研磨され、我が守りは盤石の如く、メレヨン島に根を据えたのである。そして、寸暇を利用し、栄養確保に邁進し、島のあらゆる食に適する物を蒐集せり。やどかり、野鼠、とかげ、南洋ほうれん草(根の部分が赤味を帯びている野草)、特に南洋桑の葉は最も多く用いられ、毎日の主食に代えて、満腹感を与えてくれたものだ。
今日のたそがれも綺麗に西の空を染めている。
此の島に住する者の誰れもが、望み居るは船の入港であろう。だが、これ以上の苦労をして居る戦友もまだまだ居る事を思うと、吾々は実に幸福なるものと言わねばならぬ。
勝つまでは断じてへこたれてはならぬ。頑張り通すのだ。
十月二十八日
毎日毎日首を長くして待っておった噂の艦(輸送潜水艦)が〇五、二〇時無事入港せり。
揚陸作業は海軍の担当するところと決定。早朝より準備におこたりなし。
揚陸作業は一三、三〇時より開始、二一、〇〇時終了せり。
糧林等も予想外に少なく、何んとなく物足りなさを感じたが、六月に入港しただけのことなれば、全く心強く全将兵の顔に生気がみなぎって居った。
解説
当時、戦況は日増しに悪化し、海上輸送は不可能となり、潜水艦にて海中輸送をして居ったが、魚雷や海中に浮設された爆雷等に依り、島に接近することは至難の業であった。
糧林等は密閉したゴム袋に詰められ、潜水艦の外部に積載されて海中を運ばれたようだ。ゴム袋にきずがつき、海水が入り、軟らかくなった米を支給されたこともあった。そのような米は粥にしかならなかった。ゴム袋に詰められた米は、当時、潜水艦米と言って居た記憶がある。当然のこと乍ら輸送船とちがって、潜水艦で運ばれる量は極めて少量であった。
十月二十九日
二月以来、故郷の便りは無かったが、此の度の艦で家より二通、妹より一通、友人より一通、熊沢大尉殿より一通、国民学校生徒より一通を受領す。
実に懐かしかった。父上始め家内一同皆元気とのことで安心したい‐鳥も通わぬ此の南冥の地にての事なれば、実に感激にたえぬ次第なり。
便りに依れば、同郷の竹田宗一君は二月に南海にて戦死との事、誠に残念なり。
父より返歌ありたるに付き記して置く。
〇国のため何をかもって惜むべき
今日に備えし吾が子なりせば
又、熊沢大尉殿の便りと共に、最もかなしい情報を耳にす。熊沢大尉並に斉藤大尉は南方にて戦死すと。実に戦争は無情なり。
解説
受領した手紙のうち、国民学校生徒より一通とあるは、近所に住む伊藤さと子氏である。幼ない児童の慰間の便りは、荒んだ心をよく和ませてくれるものであった。忘れがちな故郷の風景がまぶたに浮び、幼い時の貧しかった生活も、今はかえって懐かしさに変わり、しばし望郷の思いに殺伐たる軍務をも忘れられる時間を与えてくれた。又、竹田宗一君よりは、満洲密山に駐屯して居るとき、二〇キロメートル位い離れた東安の部隊から便りを受けたことがあった。同君も小生等と同様に、南万作戦に参加のため航海中に敵潜水艦の攻撃で魚雷の直撃を受け、名誉の戦死を遂げられたのであろう。潜水艦攻撃は小生等も身に泌みる程体験して居るので、其の恐ろしさがわかり、他人事ではないように思われてならない。
今改めて同君のご冥福を衷心よりお祈り申し上げる次第である。
「鳴呼態沢大尉」
熊沢大尉並に斉藤大尉は、共に歩兵第二十二聯隊附将校で、ボルネオ島守備部隊の大隊長に任命され、赴任の途中、比島マニラに於いて航空機事故のため殉職された。実に惜むべき将校でぁった。今改めて両官のご冥福をお祈りする次第である。
熊沢大尉(山形県出身)は、小生が初年兵として入隊三ヶ月後よりの中隊長で、小生が大隊本部附きになるまで、同じ中隊で寝食を共にした直属の上官である。内務に於いては、父親以上の愛情を又、軍務に服しては古武士的厳格な性格の内にも、温か味のある教育者で、心から信頼の出来る武人であった。
今、故人の有りし日の温顔をしのび、熊沢中隊の内務の躾を記し置く。
信 条
一、吾等は皇国に生き、皇国に死す。
一、吾等は任務のため死して悔まず。悠久の大義に生くるを以って、無上の悦びとす。
一、吾等は陛下の股肱無二の臣たり。絶中以って己が本分に適進すべし。
家訓十ケ条
一、我々の一挙一動は悉く忠孝を以って念とすべし。(忠孝根本)
二、御勅諭を基とし麗しき心情の保有者たるべし。(身に粗衣心に錦)
三、事々に全力を傾注し斃れて後、止むの心意気を涵養すべし。(旺盛なる責任観念)
四、心を練り身を銀え常に必勝の信念を堅持すべし。(必勝の信念)
五、日々の刻苦精励は、己が人格完成への努力と知るべし。(努力)
六、不焼不屈の発刺たる意気は使命達成の基なり。(健康)
七、卑怯未練は武人の恥、すべからく正々堂々たるべし。(正直)
八、我が身を愛しては、事の成らざるを知るべし。(克己)
九、困難なる使命に遭遇せば、自己の試練と知るべし。(試練)
十、常に心境を明朗にし、融々和楽の間上下左右一体の死生血盟の士たるべし。(中隊家庭)
右の十ケ条は、修養の資となし、朕が股肱たるの御委任に応え奉らん事期すべし。
十一月二日
明治節、戦勝の秋菊薫るよき日なれ共、南海の一孤島。しかも戦地のことなれば、何の催しもなく、早朝より儀式及び大隊長の訓話、萬歳三唱。一日休暇を賜わり故郷をしのぶ。
本日より大隊本部給与係(炊事)を命ぜられ、竹田伍長と交代服務す。
解説
大隊本部の野戦炊事場は、海岸より約一〇〇メートル位い奥に入った所で、南洋りんごの巨木の下に設けられてあった。日中は太陽の直射をさけとても涼しい快適な場所であった。
りんごの本と云っても、内地の果樹のようなものではなく、果実は小鳥の餌になって居たようだ。巨本の割に果実は少なく、数えられる位いしかみのって居なかった。果実は丁度スターキング(りんごの品種)を小さくした様なもので、色はりんごに似て居った。味は甘味酸味共に少なく、美味とは云えなかった。正しい木の名はあったと思ぅが、兵士達が勝手に名づけたものだった。
りんごと云えば、島にはもう一つあった。それは、椰子りんごである。
これはどのような物かと云うと、椰子の実が熟れて地上に落ち、数年を経て発芽が近づいた頃、コプラ(椰子の実が熟さないうちは炭酸飲料水のような液体であるが、日がたつにしたがって、バター状の脂肪に変わり、だんだん堅くなって、丁度生栗のようになった物を言う)が変化し、糖分を増し、実の中一杯に膨脹したもので、甘くサクサクした歯ざわりで、とて
もうまいと思って食べた想い出がある。
竹田伍長は竹田信雄氏で、北海道出身の大隊本部附き下士官である。
十一月七日
炊事勤務も仲々馬鹿にはならぬ。材料不足な時とて一倍と感ず。医務室よリグラム秤を借用し、諸糧林の定量を計って見るに、其の実量の少なさに驚く。
調味料少なきため、海水より塩をとる作業に大量。お陰で三日分位いの塩を得たり。
解説
調味料は乾燥味噌、カレー粉、乾燥醤油等で、最少限の味付けが出来る量だけで、余分な在庫品はなかった。海水で味付けを試して見たが、苦味が強く、食用には適さなかった。それで、ドラム缶の上蓋を切り取り、其の蓋に海水を入れ、下より火を焚き、水分を蒸発させて塩をとった。だが真白い塩は出来ず、黒褐色の塩だったような気がする。そんな粗悪な塩でも身体にふき出した汗がかわき、自くなった塩分をも砥めたくなる程、当時の吾々には不足して居ったのだから、貴重なもので、一つまみでも無駄には出来なかった。
塩作りには次のような方法もあった。天気の良い日、浜辺の流木等に筵をかけ、それに度々海水をかけ、乾燥させる方法であった。小量ではあるが、塩の結晶が出来るので、それを掃き落として使用して居た兵もおった。
十一月十四日
〇九、〇〇時突然平和郷メレヨン島の空気を破り、警戒警報が発令された。
最初、予知ありし友軍機かとのみ思い居りしに、敵機三機編体一組、零度の方向(真北)より飛来、爆弾投下。第二回目は四機編体、三百五十度の方向より我が頭上に飛来、数弾投下。落達距離近し。
菅原曹長以下、下士官七名、壕内に埋れる。又、別の壕内で阿部曹長軽傷、阿部准尉重傷、上田見習士官及び原田上等兵戦死。
第一中隊阿部中隊長も至近弾を受け、蛸壺が埋もれる程土砂をかむる被害を受けたが、生命に別条なしとの報せあり。
日夜精魂を打ち込んだ、現地自活の南瓜、自菜、とつもろこしなど、一瞬の間に吹き飛ばされ、土砂に埋れて見るかげもなき有様と化した。
ようやく密林化して来た吾が里も又、一面の枯野原と変わり、立本の葉はおとされて、冬の林か晩秋の自樺の林を思わせる如く、自い幹を十一月の強い日光に反射させて居るさまは、実に戦場ならでは見ることの出来ぬ光景なり。
解説
此の日は、雨上りの鉛色の雲におおわれたうっとうしい日で、ときたま雲の切れ目より、南洋の初夏の太陽が強い光を射し込むという不安定な気象状況であったように記憶して居る。
敵機も今まで投弾した事のない所を選んだようであった。第一中隊陣地及び経理室、本部陣地と被害は大きかった。本部だけでも重軽傷者各一、戦死者二、その他自活作物は全滅の有様であった。戦死者の安置、負傷者の手当、埋没者の救出と大騒動であった。
戦死された上田見習士官は、主計見習士官、原田上等兵は、経理室勤務で、体格の良い温厚な方でぁった。改めて心からご両名のご冥福をお祈り申し上げる次第である。
又、第一中隊長阿部大尉殿は、大隊内で最古参の将校で、山形県出身である。此の戦闘で受けた爆風に依り、鼓膜を破られ、現在でも会話や電話の際には、非常に苦労されて居られるようである。
十一月十九日
第一中隊梅瀬中尉は、此の度岩田部隊へ転勤。
交代として、高木中尉と決まり、旅団長臨場のもとに命課布達式が行われた。
十一月二十一日
〇九、〇〇時より大隊幹部の身体検査あり。
又、一四、〇〇時より伊藤参諜の部隊全員の体力鑑査行わる。山崎部隊は他の部隊に比して、劣らざる体位を保有しありと好評を受け終了す。
六日か七日位いと思われる新月梢〃中天に有り。
十一月二十二日
月例の旅団連絡演習あり。普通の日より早や目に炊事をなし、演習参加者を出発せしむ。今朝の飯はいつもより堅目に出来た故、高に於いて若千不足に感じた9医務室及び農耕班より苦情を受く。
一昨日着手せる糀を今朝開箱せり。思ったより上出来なり。初めてのことにて心配したが、結果を見て安心せり。明日は全員に甘酒を支給する予定なり。
解説
飯を炊くにも技術がいる。炊きようによって、ます目が同じでも容量がちがってくる。
食糧不足な時だけに、支給される兵士達の目は非常に鋭敏になって居る。
少し軟らかく炊けた時は、ます目が多くなくとも見た感じが多いので満足するが、堅めに炊けたときは、若千少なく見えるので、直ちに不満となり炊事係に苦情がくる。それを納得させるのにひと苦労する。
日に二度の炊飯だが、いかにして満足感を与えるかが、炊事を担当する者の任務だ。蚕に桑の葉を摘んで与えるように、毎日本の葉(南洋桑の発)を摘み、それを茄でて水にさらして、灰汁を抜き、細かくきざみ、飯が炊き上がる頃、カレー粉の水溶きしたものと、先にきざんだ木の葉を混入し暫らく蒸して各班に分配する。
南瓜の雄花のお浸しや、南瓜の葉柄の煮付けなどは食膳をかざるのに役立った。色々と研究して、毎日喜ばれるように努力をしなければならなかった。
此の時点では、自活野菜(南瓜、甘藷、とうもろこし)等はまだ収穫が出来なかったので、全く苦労の連続であった。
各人に分配された飯はそのまま食べるのではなく、各人が好みの草や小動物、本の葉などを分配された飯に混ぜ、水を入れ、量を増し、雑炊のようにして食べて居った。
兵士達は各々自分の食事を作る時が、一日のうちで一番充実した時だったようだ。
衰弱して動くことの出来ない戦友の分もよく面倒を見て、お互いに助け合って居った。今憶うに、物資の欠乏の甚だしい孤島の戦場では、隣人愛と申すか、他人に対する考え方は、平時のそれとは全くちがった形で現われて居ったようだ。他人より少しでも多く食べ、余分にあってもそれを隠し、自分だけ生き延びようと心懸けるのが通弊であるが、メレヨン島では異なって居たようだ。たとえ一個の物でも幾人かで分け合い、お互いに生き延びることを願って居った。
死ぬ時は戦友と一諸にと云う、心理的目標が知らず知らずのうちに培われて、日常の行動に現われて居った。一人生き残っても死に勝る孤独の苦しみには絶えがたいものを感じて居ったのであろう。
生と死の極地に立たされた人間のみ得ることの出来る純粋にして最も尊い精神ではないだろうか。仏教の説法ではないが、物心すべて無にして始めて得られる悟りに等しいものだったと思う。
十一月二十三日
過日実施された身体検査の結果に基づき、幹部以下の体格不良なる者に対して、特別増量を認められ、明二十四日より実施予定。
幹部兵共 甲 種 八〇グラム
幹 部 乙 種 五〇グラム
兵 乙 種 四〇グラム
尚、増量分は握り飯にして支給。
十一月二十九日
永らく床に就いていた湯浅安次郎君も戦友及び軍医の手厚い看護のかいもなく、本日一〇、〇〇時黄泉の旅につきたり。
解説
湯浅氏は召集兵で、北海道出身と記憶して居る。大隊本部勤務で性質の温厚な方でぁった。今改めて氏のご冥福をお祈り申し上げる次第である。
十二月二日
例の如く月初めは雨天が続く。野戦勤務に雨はあまり喜ばれぬ。特に覆いなき炊事場のこと故、雨は一番苦手なり。
メレヨン島にも年末の月が訪れて来たのである。予期せざる月を迎えたことには、誰れしもが驚かざるを得ぬことだ。よくこれ迄辛棒して来たものだ。各自の自覚せる生活は、実におそろしいものだ。今日迄には完全に此の世を去らねばならぬ筈の吾々が、まだ厳然として守備の任を完うして居るのだ。困苦欠乏は益々つのる。兵の一番好む煙草も一日二本宛支給。設営隊などの間相場は、全くすごいものである。煙草一本一円五十銭より二円、乾パン一袋二〇円、精米二五〇グラム二〇円と云う高値で売買されて居ることを耳にす。自己の慾望を満たさんがためにはこれ程までに罪を犯さねばならぬものかと悲観せざるを得ない。
煙草一ロ吸わせて下さい。又、一本一円でも二円でもよいから売ってくれと、大の男が頭を下げ、涙を流して我慾に負け居るさまを見るとき、「伺を馬鹿な、一丁前の男が、しかも戦場に来て居る軍人が、煙草の一年や二年、飯の二日や三日食せずとも、へこたれるようでは、どうして此の戦争に勝てるか」と拳をもって、いやと云う程殴り飛ばしてやりたいと思
うことも度々なり。
吾れ吾れには立派な任務があるのだ。兵士には兵士として、下士官には下士官としての任務。将校には将校としての責任が与えられて居る筈である。
それにも拘らず、一兵士にして旅団長級のなすべき心配をして、盛んに煩悶して居るは、愚の骨頂なり。運命は手を下さずとも順に巡りくる。自然にさからわず、来たる運命は冷静なる気持ちで判断し、善道を進まねばならぬ。
良き運命は逃がしてはならぬ。悪しき運命にはすがりついてはならぬのだ。
解説
戦場に於ける闇相場は、物資不足に便乗した最も悪質な行為で、二重三重の罪を犯して居る者だけの特権のように思われてならなかった。
軍隊では将校及び営外下士官以外の者には、日用品以外の私物の使用は認められて居なかった。全員平等に官製品を支給されることがたてまえであったから、煙草や乾パン、精米など自分が飲食するのに精一杯で、他に譲る程の物は絶対にあり得ないのである。若しあるとすれば、拾得物か盗品のような不正なものである。
闇物資の高値は、言語に絶するものであった。当時の俸給の月額を参考に記して見ると、陸軍一等兵の内地勤務の月額は九円で、上等兵で十円五十銭、外地勤務で約二倍強位いだったと思う。乾パン一袋(一食分)及精米二五〇グラムが二十円では、内地勤務でニケ月分の俸給に匹敵するわけだ。全く常識では考えられない値であった。
メレヨン島では、戦争開始と同時に現住民は食糧の一番多くあるフラリス島に移されたので、軍隊の守備して居る島は実質的には無人島に等しかかった。だから、物の売買行為などは全くなく、したがって兵の俸給は一切支給されて居なかった。兵士の手持金は満洲で支給され、島に上陸するまでの間に使用した残りの金だけで、大金を所持して居る者はいない筈である。だから闇物資などは一般の兵士には高嶺の花的な存在であった。
十二月八日
大東亜戦争満三年、第二回目の大詔奉戴日である。部隊は将兵一同、飛行場東端に集合し、大詔奉読式及び遥拝式を実施。儀式終了後、善行者の表彰式あり。此の度大隊本部より今村上等兵、其の栄に浴したり。
十二月十一日
本日より給与定量に変更あり。〇〇〇グラムとなる。
昨日より大隊長食も炊事にて準備することとなる。材料不足のため仲々思うように出来ず。己が努力の足りなさを反省す
解説
本日の日誌に主食の変更とあり。その数量は秘匿されて居る。旅団司令部の計画表を参考に見てみると、十二月十一日より一月二十五日迄は一五〇グラムとあるが、末端部隊ではこれ以下と推定されるので、一二〇グラムか一〇〇グラム位いであったことと思う。余りにも残酷な数量故に明記を控えたのだと思う。
当時、大隊長の食事は炊事より材料の支給を受けて、大隊長当番兵(食事及び身の廻わり一般の世話をする兵)が作って差し出して居ったが、日増しに材料不足になって来たので、一人分だけの食事を作ることは不可能に近かったことと思う。此の時、大隊長当番をして居ったのは、中村氏か篠原氏であったように思うが、篠原氏は或いは農耕班で活躍中であったかも知れないし、確実な事は思い出せない。大隊長もそれを知って居られたので、当番兵の苦労を察し、少しでも負担を軽くしてやり、又、自分だけ特別食(特別食といっても食糧の種類は一般食と同じであった)を食べて居ることに心の苦痛を感じられ、兵士達と同様の一般食に切り替えようと云う温かい心から炊事に任せることにされたのだろう。
大隊長山崎哲氏は、軍人とは思えぬ温厚な方であった。特に兵に対しては、決して無理は言わず、めったに怒った顔を見せない肉親の感じを与える人格者であった。
篠原氏とは篠原敏司氏で、北海道出身の現役兵で、大隊本部に勤務中であった。
十二月十三日
一三、〇〇時突如警戒警報鳴り渡り。島一帯平常と変わった雑音で満ちた。
それもほんの一時にして、後は静寂そのものの如し。直ちに空襲警報となりて、爆音の早やかすかなるを耳にす。
コンソリー一機、数弾投下後退飛す。
十二月十四日
第一中隊 成 田 兵 長
第二中隊 富 岡 正
両名共衰弱しきって永遠の旅に立ちたり。
メレヨン島の眠り病は実に恐ろしいものなり。苦しまず、安らかに眠り逝く。鳴呼いたましきかな。心よりご両名のご冥福をお祈り申し上げる次第である。
解説
爆撃に依る被害は、以前から見るとずっと少なくなった。だが、飢餓との闘いは、日毎に強まって来るのを感じた。在島中の全将兵の体力も既に限界に達して居った。だから、少しの病気でも加われば抵抗力がないので生命を保持することは不可能に近かった。
メレヨン島の主な病気は、デング熱(マラリヤ熱と同様に蚊に依って媒介され、熱は四十度位いの高熱で、三日発熱が続き、四日休みの症状を二三回繰り返して、だんだん快方に向うようであったが、マラリャ熱のようにふるえや後遺症はなかった)、アミーバ赤痢(下痢が強く永く続いた。だが、腹痛や発熱はあまりなかったようだ)、戦争栄養失調症、脚気、何れも体力さえあれば死亡率の少ない病気だが、当時の体力では一旦病気になったらたち直ることはむずかしかった。島で言う眠り病とは、殆んどが衰弱死であるから、死の恐怖感はなかったようだ。
前夜、戦友と食べ物の話や故郷の話など希望的な、わりと明るい話をし又、小声で歌など口ずさみ乍ら眠りに就き、明朝起きて見ると冷めたくなって居たと云う例が多かった。
二十才代の青年が老人のような最後を送らねばならなかったことを思うと残念でならなかった。勇敢に戦って散るのなら、当時は此の上ない名誉なことであったろうが、メレヨン島にはその機会すら与えられなかった。
姥捨て山に捨てられた老人のような錯角さえおきる。食糧さえ豊富にあれば、これ以上の極楽島は他になかったろう。だが、今のメレヨン島は餓死の島、地獄島に他ならない。
思い出の此の島は、実に姥捨山にふさわしい島であることを感じた。今まであまり気付かなかった事だが、此の島には赤やピンク色の綺麗に花の咲く植物が一本も見当らなかったことだ。華やかな南洋の花として知られる蘭やハイビスカスなどはどこを探しても見ることは出来なかった。全く不思議な島であった。
十二月十六日
旅団司令部で実施せる炊事班長研究会に参加を命ぜられ、〇七、五〇時出発。所定時刻二十分前迄に同所に至り参加す。
研究事項を忌弾なく発表。一二、〇〇時帰隊す。
解説
警備地より司令部までの距離は徒歩で十分か十五分位いの処だったと思う。司令部に出張したのは始めてである。会場は屋外だったような気がする。作り付けの長いテープルと椅子を使用したようだった。司令部の食堂のようでもあった。
研究発表は、南洋桑の葉を利用したカレー粉入りの混ぜご飯だったと思うが、たしかな記憶はない。又、此の時本間曹長と会ったような気がする。帰りは丁度、空襲の時間帯なので途中の避難場所を考え乍ら急いで帰営した思い出がある。
十二月二十日
一〇、〇〇時から一二、〇〇時の間の定期的に現われる敵機は本日も例の低空を以って我が島をおそいに来る。地上部隊の猛攻撃に依り、敵機一機撃墜せり。
搭乗員一名と書類が夕刻になって離島に揚る。
魔の如く来り魔の如く去り行く盗賊あり。暗夜特に雨の降る日は注意を要銘す。
吾が部隊長山崎大尉殿は今月一日附きを以って、少佐に進級せられたる旨電報有り。
解説
大隊本部の炊事場わきに、かまばこ型の間口三米、奥行四米、高さ一、七米位いの食糧倉庫兼炊事勤務者の居室にして居るコンクリート製の構築物があった。両端はそのまま扉らもなく、開いたままであったが、盗難の防止策として、うしろの入口には本の枝などを立てかけてあった。
掩敵壕の中には当座使用する若千の米と調味料が置かれ、又非常米として牛肉の缶詰め若干と精米二〇キログラム位いが保管されてあった。朝起きて見ると非常用米の梱包が見当らない。非常米の保管の責任者は当然炊事班長である。
これは重大なことになった。こともあろうに食糧の最も不足の此の時期に生命よりも大切な非常用米を盗まれたとは。十二月十一日に食糧の定量に変更があり、その数量も明記出来ない程の切羽詰まった最悪の時である。
今、支給して居る定量が一〇〇グラムとすると二百食分、一二〇グラムにすれば一六六食分である。現在の状態では埋め合せるなどと云うことは絶対不可能でぁる。直ちに上官に有りのままを報告して、命ぜられた罰に鈍服するか。又は、次の配給時に員数をつけるか。(員数をつけるとは、良く使われる軍隊用語で、不足物品や紛失した物品の数量を他から持って来て数を揃えることである。軍隊では隊内での物品の移動は盗難とは言わず盟廻しと言っておった。だから員数をつけることは、決して良いことではないが、兵士の中では公然と行われて居った)で迷ったが、報告する度胸もなく、後者を択んだ。それからと云うものは、一寸の暇を利用して、毎日ジャングル内を捜して歩いた。だが遂に発見することは出来なかった。其の後、経理検査も行われず、又非常用米を利用する事態にも至らなかったので、非常用米の盗難事件は発覚することなく消滅したのである。
十二月二十六日
戦友に満足感を与えるのが現在の炊事班長及び班員の重大なる任務なり。もち米一人二〇グラム支給になるそうだ。それをいかに活かすべきか。
二人寄れば餅の話で持ちきりだ。寝ては夢、さめてはうつつ幻の兵士の頭からは内地で味わった、温かく、しかも軟らかい愛情のこもった餅ほど頭から離れがたいものは無いのであろう。彼等に一口なりとも、一分時たりとも其の要望に応えてやりたいものである。
十二月二十九日
ペスト菌を有する恐しき野鼠、作物、家屋、あらゆる物に害を及ぼす野鼠も、吾がメレヨン島にては貴重な動物に数えられて居る。栄養補瞑に是れが獲得は以前より叫ばれて居ったが、此の度当大隊に於いては益々その重要なることを思い、捕獲を促進せしむる如く、経理部と協議し、二匹捕獲する毎に煙草一本支給と決定し、会報に出されたり。第二中隊の如きは一晩に八〇匹と云う膨大な数をあげて居る。此のような成果を上げ得たのは阿部准尉殿の指導及び活躍大なりと問く。
解説
野鼠を食べたと云うことは、思い出のうちでも最も好ましくないものの一つである。
島に上陸した当初から食べたわけではない。常識的に人間の食べられる物と食べられない物の区別はついて居た。食べられる小動物は、大とかげ椰子蟹、やどかり、魚類などであった。
大とかげは体長が五、六十センチ位いはあった。木登りが上手で、仲々捕獲する事が出来なかったが、いつしか其の姿を消して居た。又、椰子蟹も稀少価値的存在で、全員が食べたとは思えない。蟹味噌は仲々うまい物であったと記憶して居る。
日が立つにつれ食べられる動物も手に入らなくなった。だが、兵士達の体は益々動物質蛋白を要求する。特に活きた動物の生肉を食べたくなる。そこで目に止まったのが、十センチか十五センチ位いの金蛇やとかげの小さなやつであった。これは簡単につかまえることが出来た。又、ヤモリも食用になった。ヤモリは島に来て始めて見る動物であったが、その姿は内地の小川などに接息して居る「イモリ」のふやけたように太って、体の色は肉色の透明がかった一見グロテスクな動物であった。夜になると幕舎の
屋根裏などに這い登り、異様な声を出して鳴いて居った。
捕えた此のような小動物は、その場で皮をむき、生で食べる者も居った。それも永く続くことはなかった。次に目に止ったのは野鼠だ。それ迄は食べられる動物とは考えても見なかったのだが、生命力の要求には勝てなかった。
捕獲は簡単な道具で間に合った。二十センチか四十センチ四方の板を支柱でささえ、板の上に石を乗せ、餌にさわると支柱がたおれるように作った物が一番多く使用されたようだ。野鼠が餌に食いつくと、石を乗せた板が下に落ちるので「バタン」と音がする。板の下敷になった鼠は殆んど捕えることが出来た。二、二十分もすると又捕えられる。お面白い程捕らえることが出来た。
夕方、野鼠を焼く匂いは、何んとも云えない。夕暮れの街に漂よう焼鳥の匂いなどは比較にならぬ程食慾が出る。小鳥のように骨まで食べられた。島で一番多い虫類は蚊と蝿であった。野外食事のため配膳した汁椀には汁の実のように蝿が入って居た。それでも捨てず、上汁だけすすったいやな思い出もある。
又、南瓜や椰子の実の割ったのに蝿を止まらせ、卵を産みつかせ、その幼虫(うぢ虫)を食べた者も居ったと云う。実に人間の限界まで辿りつかねばならなかった様を今思い出すと身の毛もよだつような思いがする。
阿部准尉とは阿部善六氏で、山形県出身。
十二月二十日
健康兵として表彰を受けた事のある木崎敏夫上等兵も脚気のため、本日〇七、〇〇時死亡せり。
衷心より御冥福を祈る次第なり。
解説
木崎敏夫氏は北海道出身で、現役兵満洲で第一期検閲教育当時、小柄ではあったが、健康優良兵として表彰を受けた方であったが、食糧不足と病気には遂に勝つことは出来なかった。本当に残念でならなかった。
昭和二十年一月一日
南国の戦場にて、輝やかしい昭和二十年の元旦を迎えたことは実に意義深いことである。
門松はなきも、印ばかりの餅を撮き、正月を偲べり。
例の如く一〇、三〇時頃空襲を受くも、投弾することなく退飛せり。将校及び下士官の新年宴会を形ばかりなるも実施す。しかも空襲十分後には陽気な唄等も出て、空襲のあった暗い気分などは少しも見られぬことは実に頼もしい次第なり
解説
十二月末に話題になって居た、もち米の支給は正月用でぁった。二〇グラムのもち米は、どの位の量かと云うと、小さな盃に一杯の量である。それを餅に掲けば、卓球の玉より小さく縮まるので、餅のみ支給することはむずかしい。それで、甘藷や南瓜で館を作り、大福餅のようにして支給したように記憶して居る。それでも当時は、餅のような食べ物から永い間遠ざかって居ったし、食糧不足で食べ物に対する感覚は野性化して居ったので、少しでも内地の匂いのあるものには弱く、また敏感であったので、此のような粗末な食物でも喜ばぬ筈はなかった。
一月八日
炊事係として永い間、小生の助手をして居った今村上等兵は本日より中村上等兵と交代することとなった。
天気も長い間雨であったが、今日はとても良い快晴だ。農耕班の活躍もすばらしいものだ。早朝より晩おそくまで、鍬を銃がわりの働き振りには頭の下がる思いなり。
解説
大隊本部の農耕班長は北海道出身で、召集下士官の水田力蔵氏であった。当時、水田氏は肉は落ちて居ったが、骨格のがっちりした頑健で、性は厳正、真の軍人型の人であったから、農耕班長には最適任者であった。
土地は殆んど珊瑚の屑で、若干の本の葉や草の腐蝕したのが混じって居る程度であったから、各隊共に畑作りには苦労したようであった。甘藷は苗を植えてから三ヶ月で収穫が出来た。苗は伸びた蔓から切り取るので、無尽蔵で、たやすく殖やすことが出来た。南瓜は一本の苗から次々と収穫出来るので、五、六十個も実らすことが出来た。また、蔓の各節からは必ず枝蔓が伸び、其の下側から発根するので、株を殖ゃすことは容易であった。
メレヨン島は植物には老化がなかったようだ。それ程植物に適した風土であったと思う。
一月十日
此の二ヶ月と云うものは、実に天気の悪い月でぁった。毎日雨の無い日はなく、それも駿雨ではなく、じめじめした内地の梅雨期の如き雨である。
そのくせ夜になると割合降らず、朝より降り出すのには全く閉口する。
「メレヨンの朝」
東雲漱く自めいて来る頃、起床及び日朝点呼の劇吹がメレヨン島の北角に響き渡る。
陸鳥か海鳥かわからぬが、爽やかに鳴きわたる。
各隊各所に立哨して居る不寝番も劇吹の号音で一勢に自隊の戦友に警告を発し、起床を促す。「リーフ」に砕ける波と風の音のみの一夜も全く夢やぶれ、朝のたくましい息吹きに立ち返えった。
〇四、〇〇時南国の朝は実に涼しい。気分壮快な日である。いっか爆撃にあい、枝葉もすっかり落とされた本々もようやく春の如く若芽を吹き出して来た。夏景色より他に見ぬ目には実に新鮮味を感ず。
梢々しばらくして、日直下士官の農耕作業整列呼集あり。立てる者は全員円匙携行にて、何時もの場所に集合。将校以下全員だ。
現在の農耕こそは、実に戦闘である。最後まで生きのびねばならぬのだ。「ヨシ、ヤルゾ。憎き米英撃滅のために」と朝の新らたなる誓いと共に、弱り行く五体に鞭うって、自隊農耕場に進み行く。
脚気にて顔も足も物凄く腫れたる者も、又、栄養失調にて痩せおとろえた者も、元気な兵に伍し、片手には杖、片手には円匙を持って行く姿は、実に涙ぐましい光景なり。
砂利多き土地も吾等の努力に依り、見違える程綺麗になり、幾回目かの南瓜の大きな葉の間よりだいだい色の花をのぞかせて、朝露を待って居る様子は実に綺麗だ。とうもろこしもすくすくと伸び、花穂の出るのも遠くなきことと思う。これも皆、吾等の主食となる大切な自活品である。
天候よ、自然よ、吾が守備部隊のため、順調な日光と雨をさずけ給えかし。
解説
満洲では夜間凍死の心配ない月は、八月一ヶ月だけだと云うことを聞いて居ったが、南国メレヨン島でも、満洲の大陸的気候に対して、太洋的気候とでも申すか、朝晩は非常に涼しい。又、どんな暑い日中でも、本蔭や物蔭で直射日光さえ受けなければ、生活するには少しも苦にならなかった。また、内地のように蒸れることはなかった。農耕作業も日中はとても無理であった。まして此頃は食糧不足で、全員の体が衰弱しきって居ったから朝の涼しいうち二時間位いと夕方一時間位いの作業で、日中は休養を取るのが毎日の日課であったように記憶して居る。
病人及び衰弱者が一部、小数の人員であったなら、立てる者全員強制的に作業に就かせると云うことは、残酷此の上ない大問題でぁったと思うが各個人の体力に若千の強弱の差はあったとしても、全員が病人であり、全員が栄養失調者である。当時の状況では、より多く、より永く生き延びるには当然の手段であったと思う。
病弱者でも自発的に就労を申し出て居ったようだ。作業の程度も決して無理な計画はしていなかった。体力の消耗を強める程きついものではなかった。最終目的に反する行動は慎しむよう上師より厳しく達しられて居った。
敵の上陸作戦を阻止するには、一兵でも妄りに失ってはならぬのである。甘藷、南瓜などをより多く収穫すれば、体力の回復は確実に望めることを信じ、生きんが為めの農耕であると共に、大東亜戦争の勝利にもつながることを全員がかたく信じて疑わなかった。
一月十二日
海草採取のため、約一ヶ月振りにて海に入り、約十キログラム近くの海草を取り、汁の実とするよう準備をなす。
本日の結果に依り、食に適する場合は、万難を排して採取しようと思う。
人に頼ってばかり居ては良い仕事は出来ぬ。自ら努力し、全員のためになることなれば、たとえ海中に斃れても悔はないのである。それが吾れに課せられた任務である。最後まで頑張ろう。皇軍のためメレヨン島守備に最善を尽すため吾が身は礎石なり。
死の直前まで朗らかに畠監視に服務して、永遠の旅にいでし戦友ぞ幾人か農耕は戦闘なり。現地自活こそ、吾等に課せられた神聖なる戦闘遂行の要素なり。
解説
「リーフ」を境いに内海は波もほとんどない位いに静かな日が多い。海水も非常に綺麗だ。針が落ちても見える位いだ。内海は深い所で、満潮時一メートルニ、三十センチ、浅い所は二、二十センチ位いで、いろいろの珊瑚や縞模様の熱帯魚などの遊泳する姿も手に取るように見える。水族館のような感じさえする。珊瑚のすき間にかくれて居る蛸は、実に滑稽だった。たまに海蛇なども遊泳して居るのを見かけることもあつた。
又、栗のいがのような細長い針を体一面に生やしたのやパイプや印材になるような太い針を有した雲丹は、無数に見ることが出来た。針の細い雲丹の体にさわると針の先端が折れて、皮膚に刺り物凄く痛むので、素手では掴むことは出来なかったが、後述の雲丹はたやすく捕えることが出来た。もう一種類、針の非常に短かい、穀のうすい無害の雲丹がおった。此の雲丹は一番多く捕えられた。その場で穀を割り、中身を取り出して食べた。適度の塩味と甘味と脂こい味で、しかも生き身なので、栄養面、嗜好面でも、体の要求を一番よく満たしてくれる食べ物であった。
縫針か細い針金を釣針のように曲げたものに雲丹の肉かご飯つぶをつけ海中に投げ入れると、たちまち魚が喰いつき、つり上げる事が出来たが、何故か海に入る兵は少なかった。それ程体力が劣えて、自分の食すら満たす気力もなかったようだ。
空襲で命中はずれの爆弾が海中で爆発することがあった。その時は物凄い程の魚が浮く。それが波に打ち寄せられ、浅瀬に浮いて居るのを海に入れる兵士達は、良く捕えて居った。爆撃で浮いた魚は、内臓が破烈して居るのと気温が高いので忽ち腐ってしまう。保存が出来なかったので投げ捨てる魚の方が多かったようだ。
晴天の海は実に気持よく、一幅の絵そのものであった。
一月二十日
一四、〇〇時軽き爆音響き、たちまち下駄ばきの単発水艇現われ、我が上空を低空。両翼の日の丸の鮮かさ、幾月振りにて友軍機を見たことであろう。敵の飛行機は毎日のように見て居るも、久方振りの友軍機故、尚懐かしさを感ず。
話に依れば、船も入るらしいが、今だに其の報なし。 一日千秋の思いとはこのことか。
一月二十四日
下地富太郎君死亡。
君には暫らく逢って居ないが、眼鏡をかけ、いつも朗らかな笑顔が目に浮ぶ。頑健そのものの君も、アメーバ赤痢、栄養失調症には遂に勝つことは出来なかったのである。心から御冥福をお祈り申し上げる。
解説
海抜の底いメレヨン島では、どこを掘っても五十センチから一メートル位いの深さで綺麗な水が出た。だが、海岸より五、六十メートルの処は塩分があって飲用にはならなかった。
海水が珊瑚礁の中を浸透してくるので、如何なる雑菌が混入して居るかわからぬので、生水の飲用は禁じられて居った。生水を飲むと必ず下痢をおこし、又、アメーバ赤痢の原因になったようだ。
珊瑚礁の水を永い間飲用すると十年は生命が縮まると云われたものだ。科学的な根拠があるかどうかはわからぬが、たぶん珊瑚礁に住む原住民の平均寿命が三十五、六歳だと云う事実から出たものではないかと思う。
此の島で気付いたことの一つに、日本の陸地ならどこにでも棲息して居る蛙が全く見当らないことだ。それと南国特有の蛇、特に毒蛇は一匹も見ることの出来なかった事は、幸いなことであった。
獣類も鼠以外は全く棲息して居ないのも珍らしいことだ。本当に汚れを知らぬ清潔な感じのする島であった。
一月二十五日
毎日、昼も夜もなく艦の入るのを待ち暮らせど入る気配なし。今日は第二回目の入港予定日なり。
此の度も駄目かと半ばあきらめて寝に就く。夜半、目が覚めて周囲のさわがしさを感ず。間けば二三、〇〇時予定の艦(トラック発)が入港したとのこと。其の時の喜びたるや、たとえようなし。
早速荷揚勤務者のための増食準備をなす。
一月二十六日
前年十月受領せる書簡より前に発送せる父上の端書(五月二十日出し)今日八ヶ月振りにて受領す。全く懐かしく拝読仕る。
兼ねてより心配して居った勲章、其の他もすでに届いて居る由安堵せり。今となって少しも心残りなく、気持に余裕が出来たように感ず。
昨二十五日入荷せし潜水艦米二十二キログラム入り三十俵を夕刻受領す。雨の中を泥まみれとなりて、倉庫に収む。毎日伺よりも待った米である。盗難、鼠害等絶対になきように万全を期さねばならぬ。
永らく続行せる王食定量一五〇グラムは、二十六日より二〇〇グラムとなり、各種増量は依然通り実施するよう達し有り。各種増量とは次の如し。
曹長以上 一二〇グラム
軍 伍 七〇グラム108
兵 四〇グラム
其の他重作業に従事せる者 五〇グラム
右の量をそれぞれ握り飯として分配す。
解説
内地より発送された手紙や慰間袋等は、永らく一ケ所に駐留して居る場合は、間違いなく届いて居ったが、部隊の移動のあった場合や転勤の場合等は、転送転送で移動する部隊を捜し乍ら追って来るので、発送通り順調には届かぬのが当然のことであった。
満洲の留守部隊から新たに編成された司令部のあるトラック島に転送され(当時、届く手紙は満洲の駐屯部隊名だけで、新部隊名は書かれて居なかった)、そして末端部隊のメレヨン島に送り届けられるのである。其の間、幾回となく列車、船舶、飛行機と積み替えされた事と思う。平時ならまだしも、敗戦の色濃い激動のあの時に、一兵士宛の手紙一通が三千五百キロ以上も離れた南涙の孤島に無事、そして確実に配達されると云うことは、運送業務計画の綿密さもさることながら、多くの人手を患わしたことと思うと本当に勿体ないの一語につき、頭の下がる思いに胸が一杯になり故郷の便よりの懐かしさも加わり、頬を伝わる熱い涙をどうすることも出来なかった。
故郷の便よりの内容は、満洲出発前に大切な物は内地に送り返えすようにとの指示を受けて、遺髪(頭髪と爪)と共に勲章、勲記、その他を発送した小包の無事到着の報せであった。
戦時下の混乱して居る時であったので、無事届いたかどうか心配して居ったが、此の便よりに接し安心した次第である。
二月一日
いよいよ年明けて一ヶ月は過ぎ二月に入った。天候も朝から気持ちよい快晴だ。ときどき湧き出ずる如く、自雲のみいそがしげに東より西に走り行過日受領せる潜水艦米、本日昼食より炊飯す。実に美味なり。
二月四日
暫らく振りにて雨となり、〇九、〇〇時頃より次第に強く降り出し、壕内に雨水入り来る。
武市曹長及び松山武上等兵は、今朝より昏睡状態に入る。
菅原曹長は本日第二中隊附きを命ぜられる。
大隊漁榜班の採取せる。海草を利用して、南瓜洋かん及び寒天を作り、部隊長間食となす。
解説
武市曹長及び松山上等兵の昏睡状態は遂に覚めることなく、夕刻頃相次いで他界されたように記憶して居る。衰弱しきっての昏睡状態で、当時はすでに栄養剤等の注射液は全然なかったので、どうすることも出来なかったようだ。魚や海草のスープを与えるのが精一杯のようであった。
武市曹長は島に来てから他部隊より転入。
松山武氏は上等兵で、北海道出身の現役兵。唯々両氏のご冥福をお祈り申し上げる次第である。
漁携班の採取した海草が支給されたので、其の利用法を考え、いろいろ研究をして内地食品の洋かんや寒天を作って見て、完全ではなかったが、なんとか固まったので、部隊長に試食をお願いしたような記憶がある。
二月六日
長野上等兵、栄養失調症及び脚気にて衰弱し、遂に本日死亡せり。
解説
長野上等兵は、長野正一氏で召集兵。山崎部隊本部勤務の優秀な、気だての優しい模範兵であった。出身地を存じ上げて居ないのが心残りである。今改めて氏の御冥福をお祈り申し上げる次第である。
二月九日
上陸当時より大隊給与係りを担当して居た阿部准尉は本日より折原少尉と交代す。
増量の変更あり。次の如し。
将 校(含准士官) 一五〇グラム
曹 長 九〇グラム
軍 伍 六〇グラム
衛生兵、通信兵 五〇グラム
一般兵 四〇グラム
其の他農耕漁榜に服する者は前記の他に五〇グラム、本部当番二〇グラムの増量と決定し、二月十日より実施。
二月十日
煙草も最初は一日一箱でも不足なりと不平を言って居ったが、遂次半箱となり、三本となり、一日一本、しまいには週に一本も支給にならぬ状態となる。依然は無駄にして居た吸殻も今では全く見られず、一本の煙草も半分、三分の一、五分の一と切り、煙管にて吸うようになる。ある兵は、好む煙草とも縁を切り、又、たまに五分の一の煙草にありっいて目をまわして居る者など、実におもしろい状況なり。
二月十六日
第二中隊里伍長より、本朝艦の入りたるを聞く。
待ちに待った艦だ。だが、余りにもおくれたので半ばあきらめて居た位いであったが、突然の事にて如何に喜んだか、筆舌にてはとうてい現わしがたいものであった。捨てる神あれば助ける神必ずあるものよ。よく敵中を無事にたどりついた。其の苦労には衷心より感謝する次第なり。メレヨン島の陸海軍軍人は感謝で一杯なのだ。どうかこの意中を銃後に通じてくれ給え。
解説
最近、細々乍らも一月二十五日と二月十六日、潜水艦輸送により米と僅かばかりの調味料の支給を受けることが出来た。その度に、兵士達の生気がよみがえったように活気づく。王食の定量及び秘匿増量(司令部より示された数量以外に、各部隊毎に特別に支給される糧林の事であるが、そのような糧林はどのようにしてやりくりされたかは小生の知るところではない。余分な糧林などは一粒でも手に入る状態ではなかった筈だ。これは、各部隊の経理委員の腕次第にあったのかも知れない)も頻繁に変わる。各種増量を見ると、下士官、兵の数量は非常に少ないようであるが、重作業農耕、漁携、当番などの名目で五〇グラム位い重複支給になるので、実質的には全員同量と考えても良いようであった。
将校、准士官は職務上、下士官、兵のように支給外の自活食物(農作業以外の魚介類、小動物、本の葉、本の実等)を手に入れることは出来なかったので、若干支給が多かった場合もあったようだが、決して満腹する量ではなかった。そのような自活食物も兵から分けてもらって居たようだ。兵も上官に対しては進んで其の労を惜しまなかった。給与係として一度も食糧の支給が不公平だと云う兵士達の苦情を受けた事はなかった。
将校は兵を案じ、兵は上官を信頼し、平時なら見られぬ程のなごやかな上下の付き合いであったようだ。しかし、飢餓に悩む戦場で、此のような和やかな軍紀を維持して行くには、全員が厳守しなければならぬ掟はあった。それは、食糧(自活農作物を含む)の盗難防止でぁった。甘藷一本、南瓜一個であっても勝手にとり食いすることは堅く禁じられて居った。これは絶対命令である。此の命令に反する者には、何人であっても容赦なく銃撃を許可されて居った。
夕方になると遠くの農場で、小銃の発射音のする事も度々あった。畑監視兵の威嚇射撃かも知れないが、中には命令に反して盗みに入る兵も居ったらしい。
幸いに当大隊内の兵で射殺されたと言うことを一度も聞いたことはなかった。
里伍長は第二中隊附下士官である。
二月十八日
第二中隊 大竹曹長
歩兵砲中隊 斉藤曹長
本日より本部勤務となり、阿部曹長は歩兵砲中隊附きとなる。
解説
王食の定量及び増食の変更も将兵の体力の状態や食糧の在庫数量等に依り、頻繁に行われたが、将校下士官の転勤及び勤務替えなども一段と激しさを増して来たようだ。
将兵の日常生活の慢性化を防ぐと共に、兵の志気を鼓舞することは勿論のこと乍ら、幹部の爆撃に依る戦死傷者の続出及び病気等で入院や死亡に依る欠員を充当調整し、隊の機能の停帯を防止するため致し方のないことと思うが、部隊編成時から家族同様の親しみと、お互いに助け合って来た上官及び同僚との別れは誠に辛いものであった。
大竹曹長は大竹亀男氏で山形県出身。
斉藤曹長は斉藤吉雄氏で北海道出身。
阿部曹長は阿部荘市氏である。
二月二十日
大隊本部の元老格、阿部准尉は此の度、第二中隊附きを命ぜらる。
二月二十六日
南方作戦参加のため、場自の屯営を出発してより満一ケ年、本日は出発記念日である。
一四、OO時幾分かの列車に乗車するまでの屯営生活が今新らたに走馬燈の如く吾が頭によみがえってくる。
仇敵に最後の止どめを刺すまでは断じて斃れてはならぬのだ。
御奉公はまだ山程残されて居るのだ。
解説
二月九日山崎部隊給与係を阿部准尉と交代服務して約一ヶ月。何故の拳銃自殺であっただろう。うら若き前途有望の青年将校、折原少尉は他部隊より山崎部隊に転勤して来た将校と記憶して居る。
士官学校出身と思われる将校であった。軍隊の申し子のような純粋そのものの軍人であったように感じられた。性は温厚であったが、曲がった事の出来ぬ気性の持ち上のようであった。
故に餓鬼道の世界に溶け込むことが出来なかったのか。または、職務遂行上、余りにも責任を感じ、兵に満足を与える事も出来得ぬ人間の微力さを歎いたのか。もっと図太く生きてほしかった。今改めて氏のご冥福を心からお祈り申し上げる次第である。
三月十日
新副官来隊に先だちて安藤副官は入院す。
泉中尉、河重少尉、当大隊勤務となり即日大隊本部附きを命ぜられる。
本日は陸軍記念日なり。夕食は下士官以上の会食あり。
解説
泉中尉は泉虎雄氏で、岩田部隊より転勤して来た将校と記憶して居る。
出身地は愛媛県。山崎部隊副官安藤中尉入院につき、泉中尉に同部隊副官を下命された。
下士官以上の会食は、泉中尉、河重少尉の歓迎会を兼ねて、年中行事の陸軍記念日を祝して、形ばかりの会食を行ったことを記憶して居る。
三月十六日
本日より王食定量二五〇グラムとなる。其の補いとして、南瓜五〇〇グラムを給することとなる。
三月二十一日
本日は「米無し日」を実施。一日中、南瓜、甘藷にて暮らす。
南瓜 ニキログラム
甘藷 五〇〇グラム
中村上等兵、兵長に進級す。
解説
年明けて早や二月も下旬となった。上陸満一ケ年の記念日も間近に迫って居る。
昨年中苦労を重ね、作付けした甘藷や南瓜も二月頃から収穫が始まり、此頃ようやく「米無し日」を実施される程になった。
省り見れば今日の収穫は、一朝一夕にして出来たものではない。昨年十月頃より、陣地構築を自活農耕に切り替え、珊瑚の屑ばかりの土地を耕やし、将校以下全員の努力がようやく実ったのである。
作付したばかりで他界した戦友、また、収穫を目前にして斃れた戦友の滅死奉公の尊い精神を夢にも忘れてはならぬのである。元気なうちに一口でも食べさせてやりたかったと誰れしも思ったことだろう。
三月二十六日
河重少尉 第二中隊附
野原少尉 大隊本部附
を命ぜられる。
時々思うのであるが、第二中隊阿部准尉殿とは、上陸後一度も顔を合わせて居ない。壮健であってはしい。在満当時を思い出す。
解説
野原少尉は第三中隊附き将校で、四国地方出身。
野原少尉殿の本部附きと聞いて一層力強さと懐かしさを感じた。当時の先輩や同僚の悌が目に浮び、自分の育った中隊は生家のような感じで、伺年たっても忘れる事は出来ず、益々郷愁を感ずるものである。
四月十二日
「上陸記念日」
メレヨン島上陸一周年記念日を元気一杯にて迎えたのである。省えり見れば、幾多の思い出あるも頭の中より引き出さず、このまま静かに仕舞い置きたき感あり。
食糧不足の折なれば、記念日のご馳走もなく、自活の甘藷及び南瓜にて食膳を賑わす。
解説
軍隊の行動、特に戦時下に於いては一日一日、一瞬一瞬が記念日であり歴史の一コマとなるのである。
四月十二日は、吾々にとって終生忘れることの出来ない日であり、最も大切な記念すべき日である。
昭和十九年二月二十六日満洲の駐屯地、揚自の仮駅(防諜上二〇九地点と云う)を出発し、酷寒尚厳しい国境を通過し、朝鮮半島を縦断し、二月二日大陸に別れを告げ、釜山港を出航、一路夢に見る母国に向かった。三月八日輸送編成完結し、門司港を出港してからの二十五日間は、日に見えぬ敵と荒れ狂う大自然との闘いであった。
陸の戦闘員である吾れ吾れには、すべて戸惑う事ばかり続出し、体力的にも精神的にも相当に消耗させられたようであった。
そして、波静かな紺碧の海と絵画のような椰子生える南の島メレヨン島に着いたのが、一年前の今日四月十二日である。
日誌には、元気一杯にて上陸一周年記念日を迎えたと記してあるが、元気一杯は、軍人精神を誇張した表現であって、既にその時点では各隊共に欠けた櫛の歯の如き状態で、かろうじて生き残った者も、七、八十歳の老人以下の体力をようやく維持して居るにすぎなかった。それ故に上陸一周年の記念日を奇跡的に迎えられたことの感激は一潮に大きかったのである。
四月二十二日
本日より本部全員を動員し、甘藷畑の開墾作業を開始す。永らく炊事にばかり引込んで居た小生も一役買って、滑走路の開墾地に出場す。
四月二十三日
永らく患い居りし、本間衛生准尉並に第二中隊菅原曹長は、本日永遠の旅につかれた。
両官共に実に惜しむべき人物なり。
解説
本間衛生准尉は本間栄作氏で、又、菅原曹長は菅原留次氏で、共に山形県出身である。
菅原曹長が第二中隊附きになったのが二月四日、あの時は病気などは全然なく、元気旺盛であったが、僅か二ヶ月半で他界とは、全く一寸先は暗の運命であることを痛切に感じたのである。今新たに両氏のご冥福をお祈り申し上げる次第である。
四月二十九日
出陣第二回目の天長節を元気旺盛にて、メレヨン島にて迎えたるは実に意義深いことである。
五月一日
第二中隊椎名曹長、永らく病魔に悩まされ居る由、今日寸暇を利用して面会をなす。
痩せ衰えた彼は、見舞を受けたることを非常に喜び涙を流し感動せり。
本日より左の如く糧林定量変更となる。
精 米 一〇〇グラム
秘匿増量 四〇グラム
尚、特別増量として、
中隊長・副官以上 一三〇グラム
将校准士官 一〇〇グラム
下士官 二〇グラム
自活作業員 七〇グラム
通信手 四〇グラム
衛生兵 二〇グラム
五月五日
端午の節句なれど、戦場のこと故伺の催しもなく、只じるしばかりの笹巻各人一ケ宛支給(笹の葉はとうもろこしの葉利用)。
第二中隊椎名曹長は、遂に幾多の戦友を残して死亡せり。世は実に無情なり。只管君のご冥福を祈るのみ。五月二日小生宛の手紙は、君の最後の言葉なり。
解説
第二中隊椎名曹長の小生宛の手紙の内容を掲載するべきか否かをいろいろと悩んだが、椎名氏の当時の心境が如実に表現され、またメレヨン守備部隊の窮状が最も良く窺える貴重な資料であると思うので、敢えて掲載する事にした。
手紙の用紙は当時、軍隊で使用して居った通信紙(表は通信文を書く罫紙、裏は地図や略図を書く方眼紙)を使用されて居った。
病床に横になったまま、鉛筆書きのものであったので、字体も乱れ、読みとれない箇所もあったようだ。尚、手紙の実物は、椎名氏のご遺族にお届けをお願いして、ご当地の役場の係りに郵送したので、手元には其の写しがあるだけで、実物は残って居ないことを付け加えておく。
「椎名曹長の手紙の写し」
椎名曹長
小野田曹長殿
毎度誠に済まない事ばかり、恥忍んでお願ひ致し、愛想つかしの事と存じます。
しかし、昨日より中隊の給与は、働かざる者は喰ふべからずで、死の宣告は元より覚悟なれども、朝昼米の姿の全然ない粥に、南瓜の青いのが一切も入って居らん始末。之が患者故湯呑に一杯、夕食は二〇グラムの増食に六〇グラムの廃米のような飯だけで、誰れ一人同情してくれる人もなく残酷きわまりない始末です。
死ぬよりつらいとは此の事です。それで悪い事とは知りつゝも生米にて可なれば、一人寝て居てプツリプツリ、二粒程づつ噛んで居れば人目につかず、一番良いので(?)君に迷惑をかけませんからお願ひいたします。
尚、いもが出来ましたらお願ひします。
五月三日
五月七日
一七、〇〇時頃、全くおもいがけざる潜水艦入港。もう少しと云うところ神の護りか、否大元師陛下の御慈悲により救い出されたのである。
御奉公だ、総べてを捧げ奉りて、御奉公にぬきん出なければならぬ。
五月十九日
「喧呼椎名曹長」
戦友椎名曹長、一つ星から枕を並べて生い立った仲だ。今日は君の死亡二七日に当り、哀心よりご冥福を祈り、在りし日の椎名氏を偲び奉る。
氏は性温順にして、品行極めて方正、諸事沈着にして熱心、実に衆の模範となる人物なり。依って、各上官の信頼篤く、戦友同僚に親しまれ、下級者よりは兄の如く慕われ、いつも中隊内を明朗化し、特に氏の得意なる民謡小唄等は、氏の明朗闊達なる性質を充分に物語るものなり。又、孝心深く、常にご両親のお写真を身につけ、日夜身を修める資となせり。
此の度、大命に浴し、大東亜戦争に参加するや、只管軍務に精励し、家郷を忘れ、身を滅し、死を以って報い奉ったのである。
農耕班長に給与係下士官に、又は小隊長に、実に氏の活躍は大なるものあり。呼々君はもう亡くなったのだ。此の世の人ではないのだ。君の死亡する五日前に面会をなし、感激の涙と共に手を取り合ったのである。又、三日前には君より最後の便りを受けとったのである。是れは唯一つ形見である。吾れに生ある限り、保存し君を偲び、正しい道の指標として進むべきなり。
氏は、ほろびたのではない。天皇に帰一し奉らたのである。日本軍人として、是れに過ぐる欣快はないのである。氏は生前、俺の仏前には花と餅をそなえ給えと、日ぐせのように言って居ったものである。
五月二日の手紙内容に依り、甘藷繭で五本と精米を煎りたるもの二五〇グラム程を氏に送る。非常によろこんでくれた。氏は脚気、アメーバ赤痢、戦争栄養失調症のため、遂に負けたのである。
五月二十一日
本日より炊事当番柴田と林の交代あり。
解説
今日迄永い間炊事に勤務をして居た北海道出身の林七五三太郎氏と、同じ北海道出身の柴田次雄氏の勤務交代である。両名共比較的頑健であった。当然の事乍ら、伝染性の病気を持って居る者は、炊事勤務に服務することは出来なかった。
六月一日
本日より定量減じられ、二〇〇グラムとなる。
〇日本晴一家揃って田植かな
〇起きいでて棚の南瓜の花見んと
見上げる空に有明けの星
六月十日
〇波の峯きえゆくところ遥かなる
艦影なきも流るゝ煙は
六月十二日
〇日の本の衣は四季に変るとも
変らざりけり大和魂
六月十四日
〇日のみ旗夢みしあした天照に
国幸あがれと祈りし吾れは
〇棚南瓜ゆうべも無事かとほゝずりぬ
〇日毎成る棚のひさごの楽しみは
雨の一夜にさらわれにけり
解説
炊事場の入口の広場に、敵機に対しての遮蔽と日よけを兼ねて、南瓜の棚をカマボコ型のトンネルのように作り、瓢箪の形をした南瓜を五、六本植えて、だいだい色の新鮮な花を楽しんで居った。実も成り、あと一週間も過ぎれば収穫し、皆んなの食膳を賑わされそうだと炊事勤務者一同、其の日を楽しみにして居たのを或る雨の夜に、何者かにもぎ取られてしまったことがある。もぎ取られた其の茎に「里子とは思えど育ての親なれば、実らぬ前に去るぞ悲しき」と短冊に記して下げ、心ない者に悲しみを訴えたことがあった。
食糧の盗難防止については、厳しい命令が出されて居るにも拘らず、不心得者は絶えなかったようだ。だが、此のようなことは決して本人の意志で犯すのではなく、生きようとする生命の本能が働いた、無意識的行動であったと思う。飢餓状態にある人間の本能と肉体は、無言ではあるが容赦なく栄養を要求する。いかに強い軍人精神が止めようとしても防ぎ切れるものではなかったようだ。
今を生きなければならぬ人間にとって、ものの正、不正などは問題ではないのである。此のような苦しみは、実際に飢えた者でなければ、どんなに上手に書いても、話しても、見る人、間く人に真の理解を得ることは不可能であろう。
億単位の犯罪が横行する現代に、このようなことを書くと云うことは全く、笑止千万なことであろう。今の世では罪などの部類に入らぬことは万万承知のことである。針小棒大の表現も甚だしいと一笑に附されることだろうが、当時のあの社会では最も重大なことで、重罪に価する行いであったことの事実を思うと、全く世の移り変わりに依る無限の較差には驚かざるを得ぬ次第である。
六月二十日
〇行水のたらいにとかげとび込めり
〇蝶々もとびゆく浜の潮干狩り
山本氏添削
(蝶々や潮干の人を縫いぬいに)
〇潮干狩今日の戦果は蛸二杯
山本氏添削
(潮干狩り蛸二杯の戦果かな)
〇針をもてば母恋い畑にすき取れば
八重雲遠く父人を見る
解説
山本氏は当時、旅団司令部附き下士官の山本軍曹と記憶して居る。
六月に入ってからだったと思う。旅団では兵士の志気を鼓舞する目的を以って、各隊より俳句を募集すると云う、司令部会報が出され、小生も勤務の合間を利用して、投句をなし、心のすさみを和らげて居った。
山本氏は其の時の選者で、いろいろ指導を受け、又、貴重な添削をいただき、非常に心の励みとなったことを覚えている。だが、現在まで一度の面識も無いことは甚だ残念なことである。
六月二十一日
本間衛生兵長及び今村上等兵は、先に椰子液注射に依り拒否反応大にして終日苦しみ居たりしも、本間衛生兵長は遂に死亡(十九日三二、〇〇時)今村上等兵は三十一日〇、〇〇時死亡せり。
第二中隊より立野上等兵、大隊長当番要員として本部勤務を命ぜられる。
解説
椰子液注射は、各隊で実施して居たようである。誰れが許可したか、又指導したかは定かでないが、椰子液には糖分があり、無菌で栄養価も高いことは皆んなが知って居った。これまで注射した者で、拒否反応で苦しんだり、又、死亡したと云うことは聞いて居なかった。それだけに此の度のように相次いで死亡したことは、非常なショックであった。
当時、軍医及び衛生兵は次々と斃れ、其の機能はほとんど麻痺状態であった。それで、簡単な皮下注射などは、戦友同士、または個人で打つようになって居った。故に器具や局部の消毒なども不完全な場合もあり、又、自己の体の衰弱程度や正確な病名すら知らずに自己判断で処理し、取り返しのつかなくなることもあったと思う。
両名共貴重な人材であった。特に今村氏は、炊事勤務で永らく一諸に働いた方である。気立てのやさしい無口な方で、がっしりした潰しても漬れないような体格の持ち上であった。今も瞼にはっきり浮んで来る。懐かしさで胸が締めつけられるような感じがする。
改めて心からご両名のご冥福をお祈り申し上げる次第である。
本間衛生兵長は山崎隊救護班に勤務中の衛生兵である。
立野上等兵は立野友雄氏で現役兵、北海道出身の億い出の多い戦友である。
「紫檀の箸」
島にはいろいろな樹木が生えて居った。だが、熱帯のためか年輪の無い種類や、あっても比較的軟質の樹木が多かった。そんな中に紫檀の一種で非常に堅く、水に浮かない潅本があった。(印度やセイロン島の紫檀は喬本である)兵士達は軍務の余暇に、其の本を利用し、パイプや箸等を作り日夜の無酬を慰めて居った。なかには見事な作品に仕上げる手先のきいた兵士も居った。
立野氏が本部勤務で来隊した時だったと思う。戦友から貰った物だが、良かったら班長殿にあげると言って渡されたのが紫檀の箸と箸箱であった。刃物は官物ナイフ一丁だけなのに、よく此のような堅い木で立派に作りあげたものだと感心し、又、これは南方作戦参加記念に最高の品だと思い、大切に持ち帰えり、現在も毎日欠かすことなく使用している。一箇の物品が、このように永く使用出来ることは非常に希れなことでぁると思う。今後とも生ある限りお世話になり、また心の寄りどころになる事を思うと立野氏に感謝せずには居られない心で一杯である。此の箸と箸箱が存在する限り、立野氏の面影は小生の脳裏から消え去ることはないであろう。
又、メレヨン島との祥の深さをつくづくと想い、五十年、六十年と此の箸とのお付合いの永からんことを祈る今日此の頃である。
六月二十日
月例の農産物品評会開催される。旅団で総合第二位に入る。
解説
日誌に月例の農産物品評会開催とあるので、思い出そうと努力して見るが、全然当時の様子が浮んで来ない。会場がどこか、出品物が何なのかも記憶が無いところを見ると、農耕班主体で行われたのかも知れない。其の成績を会報で発表されたので、関係者以外の者でも知ることが出来たのだと思う。
七月二日
大隊漁携班に活躍中の平間辰雄伍長は、爆薬作製中、不幸にも事故発生。あたら命を絶つの止むなきに至れり。
実に惜むべき人材なり。第一回目の教え子なれば、惜別の辛さ一潮なり。
君の英霊は永久にメレヨン島を守ることであろう。
解説
山崎部隊では海幸を少しでも多く将兵の糧にと、各中隊より経験者を選び、漁携班を編成し、其の成果を期待して居った。
平間伍長は其の班長を任じて居った。不発弾を解体し、火薬を取り出し小型の漁獲用の水中爆弾を製作中の不慮の事故であった。
氏は昨年四月十八日の空襲で重傷を受け、又、此の度の殉職で、当時は此の上ない名誉の戦死と戦友からも崇められたが、本当にお気の毒なことである。
今新らたに哀悼の意を表し、衷心よりご冥福をお祈り申し上げる次第である。
七月六日
〇涼風に虫の音ゆれる青すだれ
〇東雲の自みてのぼる月青し
〇上玄の月や銀河の渡し舟
七月十三日
〇葉折れせし椰子にかかれる月青し
〇東雲の自みて椰子の黒く浮き
山本氏添削
(東雲に黒く浮きたる椰子一樹)
〇浜風にゆれる椰子の実熟れにけり
〇若椰子やそよぐ浜風きざみつつ
〇白浜に流れ生いたる若椰子の
そよぐ霧風きざみける見ゆ
〇静かなる波に東雲映えければ
椰子の本立の黒く浮く見ゆ
七月十六日
〇みそぎなすはだにすゝきや霜河原
〇せゝらぎの音清らけきみそぎかな
山本氏添削
(せゝらぎの音にみそがるみそぎかな)
七月十七日
〇自雲の立ちて土用の牛の声
〇荷車の遠音ねむげな土用かな
〇薬草の干せる軒場の土用かな
七月二十日
〇うちわのみ動くタベの涼み台
〇あらし猛け篠つく雨にうたるとも
散りせん桜花の任ぞおもけれ
〇久方に故郷の便りひもとけば
つとめ大事と悟す父母
〇かえりみて恥じざることこそ神洲の
丈夫武夫の進むべきみち
八月二日
◎戦いは耐える心のくりかえし
耐えぬくわざに勝利あるらん
〇飢えるとも耐え忍ぶこそ国栄え
解説
「耐える」
耐える、海で、陸で、小生達の戦斗はすべて耐えることの連続であった。
生と死の境界に立たされて、強いられた耐えの修業であった。
是れ程徹底した鍛練の道場は他にあるだろうか。故に小生達には耐えることは第二の天性となって戦後四十年近い今も息づいていることをしばしば感ずることがある。だが、この耐えると云う天性は、現在の生活にはプラスになることも多いが、耐えすぎて消極的となり、重大なマイナスを招く恐れのあることも知った。
天性と云えば、軍隊で良く使われる言葉に、猫をかむると言う、余り有難くない言葉があった。これは、自分の悪い性格を表に現わさず、聖人君子づらをして居る、二重人格者のことをなじる言葉であったようだ。
「お前達は猫をかむるなら、かむるで良いから軍隊に居る三年間否、一生猫をかむり通せ。そうして第二の天性とするように」と、上官によく言われ、又、自分達も言って来たものだ。今思い出しても、軍隊らしい訓えであったと思う。
平時戦時を問わず、軍隊は耐える事の鍛練は怠らなかったようだ。銃剣術にしても、行軍にしても、敵に勝つことは最後を耐えることでぁる。敵も人間である以上、自分が苦しい時は、敵も同等に苦しいことを思い、最後の一刻を耐え抜いた者のみが勝利を得られるものでぁると教えられた。
これが当時の軍人精神の根本であったのかも知れないのである。
八月五日
八月一日播種せる高梁、本朝発芽しおるを発見す。全く嬉しいものである。八月八日は敵米国の航空日なりと、此の日大々的に吾れを爆撃すると云う。もっての他の暴言だ。必ず逆に伏せてやる。無言のうちにも備えあり。案ずるに足らざるなり。
俳句「蚊やり火」三句投句す。内一句天地人の人に選ばれる。
〇客間にて豚けむり吐く蚊遺りっぼ(人)
〇蚊遺火の煙に愛馬の潤かな
〇青すだれゆれて蚊遺火ゆらゆらと
八月六日
今般畏れ多くも、大元師陛下におかせられては、中部太平洋島嶼守備部隊第二十一軍軍司令官に対し、聖旨令旨を御下賜給えり。
部隊に於いては、本日〇九、〇〇時より伝達式が挙行された。皇恩の有難さに、一同唯々感涙にむせぶのみ。南冥の孤島、地図にさえ載り居らざる小島の我々に至るまで、大御心の及びたるは、実に皇恩の偉大なることを如実に物語るものであると共に、皇恩は太陽の如く尊きものなることを心得ねばならぬものなり。かくも遠大なる御皇恩に対し奉り、我等の責務を完全に果して居るか否かを良く反省し、ご奉公に遺憾のなきよう努力致さねばならぬのである。
八月十一日
八月に入って定量一四〇グラム、又、一ヶ月に四日間の米無し日を実施と定められ、不足カロリーは現地物資を以って補う如く令せられた。
依って大隊本部にては、一の日と六の日を米無し日と定めた。
其の内容左の如し。
朝 精米 一五グラム
甘藷 一〇〇グラム
南瓜 三〇〇グラム
昼 甘藷 三〇〇グラム
南瓜 六〇〇グラム
夕 精米 三〇グラム
甘藷 五〇〇グラム
とうもろこし 一〇〇グラム
以上、右カロリー合計 一八一〇カロリー
八月十七日
噂に依れば、一昨日ごろ本戦闘の情勢に変化あるならんと。休戦か停戦ならんと、何れにしても寝耳に水、意外のことにて驚愕す。
唯々事態の好転を祈りつゝ。
本日より定量八〇グラム増量。
八月十九日
臆呼遂に来るべからざる事態来りしか。
詳細は不明なるも周囲の雰囲気により、只ならざる事を悟る。
本日一〇、三〇時より大隊本部の下士官以上の集合あり。前日行われた部隊長会合事項の伝達並に詔書の奉読式が挙行された。
あゝ此の一瞬より吾等の心境は、言葉の限りを尽しても、字句の総てを書き連ねても、表現し能わざるものに立ち至りぬ。
かくの如き事態に陥とし入れたるは、是れ赤子として、最大の不忠なり。
ましてや国家の安危を担う軍人にしては、尚罪の倍在するを憶うべし。
万軍直ちに腹かき切って、詫び奉らねばならぬは必定なれど、今般ご下賜あらせられた詔書の大御心、赤子に対する底知れぬご慈愛を拝察し奉るとき、生死を超越せる心魂湧き、こゝに堅くかたく再起を誓い奉り、より以上の国体の安泰を期さねばならぬ。
耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、同胞共に生死を超越し、国家建設に邁進することを誓い奉る次第なり。
臆呼天神よ、大東亜戦争の善悪を裁かれよ。
解説
国の総力を傾けた大東亜戦争に変化を感じたのは事実である。定期的の爆撃もびたりと止んで、殺伐たる島の空気にも伺んとなく逼迫感が薄れて来たことを感じて居った。
大隊長の司令部集合(日常の行事等は、命令受領下士官の伝達で間に合って居った)輸送潜水艦の入港もないのに、王食の増量、各中隊長の本部集合など、予感だけでなく島全体が何んとなく騒がしく感じられた。
いよいよ八月十九日、下士官以上の集合を命ぜられ、山崎大隊長より前日行われた司令部での会合事項の伝達及び終戦詔書の奉読式があり、決定的瞬間を迎えたのである。
将校、下士官共に沈黙が続き、次第に鳴咽に変わった。伝達する者も、それを受ける者も、一様に痛恨の涙にぬれた。
上陸以来、どんな悲しいことに出合っても、又次々と戦友が去り逝く状態を見間しても涙の出ることはなかったが、伺故かこの度は違う。軍人として、最悪の事態に引ずり込まれたからか、軍人魂に宿った戦争の悪魔が路抜け落ちたからなのか、とにかく全将兵の気持は複雑であった。
大隊長は勿論、中隊長や将校の中には、その重責を感じ、自決を覚悟し身の廻りの整理中、当番兵達に発覚、阻止され、又、兵に殉死を迫られ、その説得に困ったと云う話もあった。
そのような事態の起きることを察知された北村旅団長が、全将兵に対する終戦処理に関する厳正なる注意事項を発令された。その中に一時の感情に走り、軽々しき行動をきびしく戒められた条文のあった事は言うまでもなかった。上級将校と誰も厳正なる命令には抗する事は出来なかった。そして軍は、ようやく平常に帰ったようであった。
灼熱の太陽は容赦なく、戦火に疲れ果てたメレヨン島を照らして居った。今までさほど気にも止まらなかったリーフに砕ける自い波の音のみかしましく耳柔を打っ。軍人精神のみに支えられて闘い、又生きて来た筈の吾々も、終戦の一語で、一瞬にして虚脱状態に引き摺り込まれるのをどうすることも出来なかった。
今までの激情とは裏腹に、あゝよかった。もう戦争は終ったのだ。あの胸の奥深くを抉られるような、嫌な思いの空襲も二度と味合わなくても良いのだ。生きて母国に帰れるかも知れないと言う安堵感がむらむらと湧き起こり、喜びとも悔恨ともつかぬ、複雑な気持で頭の中は葛藤の渦で目眩いさえ覚えた。
やはり、死を賭けた戦争は心の重荷であったと言うことを兵は兵なりに将校は将校なりに痛感した。いかに強烈な教育を受けた軍人とは言え、戦争と云う黒い衣を脱げば只の人間である。戦争の終った現在、死か生かを選ぶに時間はいらない。電光の如くに本能が働く。状況が死の境地から生へ転換すれば、心の奥底から安堵の心が湧き出でて、最大の喜びに五体は揺れ動かされる。是れは正に人間の原点であり、又、条件であると思う。この時程、人間にとって生の尊さ、偉大さを痛感した事はないであろう。幼児の頃から受けた徹底した軍国主義の教育も、信仰に徹した人間よりは、死に対してはるかに脆いと云うことも知った。
今、上官及び戦友の一番心配して居ることは、現在床に就いて居る将兵が、安堵の余り気がゆるみ、生命に異状を来たすようなことがあるのではないかと云うことであった。
九月十一日
起床と同時に滑走路の畑にて甘藷収穫。昼過ぎ小雨にて気持ち悪し。
私物並に書類の整理をなす。
解説
「灰色の青春」
人間一生のうちで、体力的にも精神的にも、青春を最高に記歌すべき年代である筈なのに、何ぜか吾等の青春は、灰色の雲に厚く覆われ、南国の強い陽の光さえ通す事は出来なかった。青春の曹も遂に開花することなく萎えしぼんで枯れ落ちて行く姿が、今まざまざと連想されるのである。メレヨン島で暮らした吾れわれには不思議な位い、性に対する感情は起らなかった。
同性だけの生活が永く続くと、男性型と女性型がはっきり現われて来るものである。健全な身体と精神を保持出来る環境なれば、必ず同性愛が芽ばえて来るのが当然のことであると思うが、そのようなことは全然見ることも、聞くこともなかった。この頃では、女性のおもかげも性の対象として、脳裏に浮んで来ることはなかったようだ。
七、八十歳の老人でも全然と言うことはない筈だ。とすると、肉体は老化し、精神は幼児化したのであろうか。実に不可解な青春を体験したわけである。
その後、遺傷は島を離れ、軍を離れ、故郷に帰ってからも暫らく続き、又、うっ病や療癬などで永らく悩んだ方々も多かったことゝ思う。
これがメレヨン島守備隊員の偽らざる青春、灰色の青春であった。
九月十七日
十六日入港予定の高砂丸は、本日一〇、〇〇時巨大な姿をメレヨン島の東方に現わした。
あゝ幾月振りの懐かしい思いにひたったことか。任務終りし吾等を乗せ、母国の地に送り行く、待ちつくした艦なのだ。
九月十九日
病院船高砂丸入港と共に乗船帰還の予定なりしも、敵万軍使の要求事項遂行のため遅延し、十九日午後、思い出多きメレヨン島の地を後にせり。
夕食後、涼みがてら船員より内地の話を聞く。
解説
無条件降伏に依り、九月十五日米軍立合いのもとに武装解除が行われた。
解除に立合った米軍将兵は、痩せ細った骨と皮ばかりの、そして身にまとった軍服は色あせ、破れて、乞食にも劣るような姿の日本軍将兵を見て驚愕の目を見張ったそうだ。鬼神もおそれたと言う程の異名を取ったことのある日本兵の此の無残な姿には、唖然としたことであろう。
高砂子丸入港と共に乗船帰還の予定であったが、兵器弾薬の処理を要求され、その作業に数日を要した。いよいよ乗船の許可がおりたのが十九日の午後であった。乗船にあたっては、兵器類は勿論だが、刃物一切、針に至るまで、又、書類等にも厳重な検査を行い、一人の違反者があっても乗船差し止めと云う、きつい達しがあったが、小生は在島中の日誌だけはどうしても持ち帰りたかった。かねてより此のようなこともあろうと思い、最も小さな手帳に全部を書き移して置いた。それを戦闘帽の裏布の中に入れておいた。
いよいよ山崎部隊の乗船の時が来た。胸の鼓動は益々激しく、目の前が真っ暗く貧血状態となる。頭のどこからか、落ちつけと云うような声が聞えたように感じた。(そうだ、落ちつくのだ。そして、運命に従うのだ)数秒間自間自答の繰り返しが続いた。そうして目が覚めたかのように、我れに返り深々と深呼吸を行なった。
灼熱の午後の太陽は、容赦なく砂浜を照らして居った。鼓膜を取り除かれたように、何の物音も耳に入って来ない。全く暗夜の無と表現すべき状態であった。
兵士達の行動もスローモーションのような動きにしか目に映らない。全く空ろの幻影を見るような気がした。そして、カメラのシャッターを切るような音を感じて、ようやく現実にかえった。
前列の兵の歩みが進んだ。いよいよ順番だ。手は思わず戦闘帽に触れた。
確かに手帳の在ることを確認した。発覚の恐怖におののき乍らも、平常をよそおい、乗船場に歩みを進めた。だが、幸いにも個人の所持品検査はなかったので、他の戦友にも迷惑をかけることなく済んだわけである。
今省りみて、吾が生涯で是れ程大きな暗けをしたことはないであろう。
当時の心境を考えれば考える程、魂の凍るおもいがする。無謀も甚だしい。己が生命ばかりか、軍の運命までも左右し兼ねない重大な行動を敢えて取ったのである。
無事に乗船しても賭けに勝った感動は少しも起らなかった。若し失敗した時のことを思うと益々悔悟の念に苛えなまれることをどうすることも出来なかった。
九月二十日
心地良い潮風につかれた体をうたれ、気持よく目を覚ました。艦内の一夜は全く短い。昨日から連続乗船作業が続いた。
一一、〇〇時いよいよ疲れ果てたメレヨン島を後に一路母国に向って出航した。今まで続いた雨天も今日は吾等の前途を祝する如く晴れ渡った。
海のあい色はあくまでも濃く、艦の残し行く航跡は、大河の如く北へ北へと進み行く。
解説
十九日午後から乗船を開始したが、高砂丸が停泊して居る沖までは、小さな船で運搬しなければならぬので、後続部隊の乗船が完了したのは二十日昼近くであった。
幾多の戦友の遺骨と終生忘れることの出来ない思い出を残し、一一、〇〇時出航。
戦争に依り枝葉の折れた椰子の本の林立する、疲れ果てたメレヨン島に別れを惜しみ、島影が水平線の彼方に沈むまで、甲板を辞する者はなかった。実に感無量、寂として声もなく、涙で二重に映る島の妖しきまでの美しさ、幾多の亡き戦友を残しての離島である。霊魂の叫びにも似た舷側を打つ波の音には、後髪を引かれる思いに胸の痛みさえ覚えた。
必至で働哭をこらえ、鼻汁を畷る音のみの悲哀に満ちた情景は、言葉ではとうてい表現出来るものではなかった。
そして、死と生の別離の苦汁を掌め合った者のみ知ることの出来る、辛らく物足りぬ船出の光景であった。此のような心境を語ろうとする者は無かったが、生存者全員の気持ではなかったろうか。
九月二十三日
秋季皇霊祭
太平洋の黒潮ほゆる大海原の真只中、右舷を望めば水平の彼方より薄雲を破りて、秋の太陽が輝き登り、金波銀波をただよわせ、自然の厳粛さを思わせる。
小鳥の如く飛魚も波上に現われ、活気を呈し益々生気みなぎりぬ。
〇八、一五時皇居遥拝を艦上にて行なう。右舷三〇度。
九月二十五日
別府港入港。
懐かしい島、山も何んとなく淋しいような、戦争と天災とに疲労しきった国の姿を見る。誠に申し訳ない、済まない感じで胸一杯だ。
解説
昨年二月門司港を出航して、メレヨン島に着くのに要した日数は、三十五日間であったが、メレヨン島より別府港着までに要した日数は、僅か五日間である。これが戦争と平和の差であろうか。
彼万薄露の中に墨絵のように浮かび出た島、山。鳴呼、あれが母国、日本かと懐かしさに目頭のうるむのを覚える。戦争でずたずたに傷つけられ其の後、追い打ちをかけるかのような台風に見舞われて、打ち沈む人々と疲れ果てた町並と風景、これが敗戦に晒された母国の姿であった。どこを探しても一片の華やかさを見出すことは出来なかった。
別府の港には、鉛色の雲が低く重れ込め、小雨さえ降って居たような肌寒さを感ずる薄暗い日であった。歓迎の出迎えさえ無かったようだ。些か物足りなさを感じたが、却って心の負担を軽くしてくれた。
幾ら国のため命を堵して、闘って来たとは申しても、凱旋ではないのである。国民の期待に添うことも出来なかった。敗軍の引揚げであることの惨めさが身に泌みる思いであった。
そして、すんなりと上陸出来ぬ程、国の敷居は高かったように記憶して居る。
尚、別府に上陸し、宿舎に入ったのは、九月二十八日であった。
終り
あとがき
これまでに戦争を題材にした記事、或は小説等を数多く読まして戴いたが、どの文章にも必ずと云ってよい程、悲惨さに目を覆い、断腸の思いのする場面がえがかれ、又、働哭の上まらないと云う箇所が多く書かれてある。実に作者の筆致の妙技には敬意を表するものがある。然し乍ら、小生達の戦場にも其のような状況や、それに勝る事件には連日のように直面して来た筈なのに、何故か誌面にはその姿を現わさぬもどかしさを感ずる次第である。
これは只単に、作者の筆技の差だけだろうか。否そればかりではなく、実際に苦境の中で生き乍ら、その都度卒直に記したものと、はたで見問し、想像を加えて書いたものの差もあるのではないだろうか。
何故なれば、苦境の中で生き続ける者には、自分の置かれて居る境遇が、はたで考えて居る程、酷さや、惨めさは感じないのである。 一より二、小より大、今日より明日と常に其の上の倖せを探し求めて、生き続けて居るからである。いかに食に飢え、明日をも知れぬような生命の持ち王であっても、たとえ言葉ではどのような酷さを言い表わそうとも、心の底では決して希望は捨てなかった。おどおど恐れ、おののきながら、自分の死を待って居る者は居なかった。
そのような中でも楽しみを作り出す能力は失って居なかった。お互いの冗談に笑い声さえ聞えることもあった。
窮地に立てば必ず、上を見て這い上ろうとして生きるのが人の常で、不幸にして下を見なければ、生きられない人が居たとしたら、その人は必ず落伍する運命にある人だと思う。故に日誌にも其の心の動きが現われるのであろう。
誰れしも醜より美、悪より善を好むもので、文章にも必然的に現われて、小説との差が生ずるものと思うのである。
扱て永年の宿願であった日誌もいよいよ脱稿の時を迎え、些か心の安らぎを覚えて居る次第である。
此の日誌の一字一句は、想像や造り話ではなく、其の日其の日の実態に一番近い、最も確実な戦闘中の生活状態を記したもので、当時を知ることの出来る唯一の資料であることを自負して居る次第である。
尚、解説は約四十年後の今日、草案したものであるが、現在の思想や思い付きを記したものではなく、四十年前に遡った当時の年令及び心境になり切り、日誌の原文を尊重して書いたつもりである
此の日誌は小生が所属して居た、一個の大隊本部を主体として記したもので、これがメレヨン島全域、メレヨン島守備部隊の総べてに適合するとは断言出来ないが、各部隊間に大同小異はあつたとしても、最高指揮官が稀れに見る、高潔温厚な人格者であったから、それ程大差はなかったことゝ確信致しておる次第である。
諸兄各位には読後、何んとなく味気なく、物足りなさを感じられたことだろうが、文章の未熟さは別として、本書発刊の主旨をお汲み取り下されるようお願い申し上げる次第である。
「注」 本文中のご芳名は実名であるので、個人的にご迷惑をおかけするようなことがあっては申し訳ないので、ご住所を道、県で止どめておいた次第である。
尚、此の本は非売品で、小部数の発刊であることを申し添えて欄筆致す次第である。
著者 小野田 貞夫
発行 昭和60年6月20日
履歴
陸軍曹長 小野田 貞夫
大正七年四月二十六日生
昭和十二年十二月十日現役兵トシテ歩兵第二十二聯隊留守隊第八中隊二入営
陸支密第九二三号二依り十二月二十六日歩兵第二十二聯隊二転属ヲ命ス
十二月二十六日山形出発
十二月二+七日新潟港出帆
昭和十四年一月二日羅津二上陸
一月二日朝鮮国境通過
一月四日満洲国牡丹江省東寧県緩西着
同日第十一中隊二編入
一月五日同県南天門着
同日ヨリ同地附近ノ国境警備
五月十三日警備交代ノタメ南天門出発
同月十四日東寧県絵西着
同日ヨリ同地警備
七月十六日応急派兵下令
七月十七日編成完結
同日ヨリ絵西二在リテ待機
九月四日海拉両方面二出動ノタメ絵陽県絵西出発
九月七日海拉商著関東軍司令官ノ直轄トナリ同地二待機
九月二十二日絵西駐屯地二復帰ノタメ海拉雨出発
九月二十五日綾陽県綾西著同地警備
同日応急派兵解除
十二月十七日絵陽県綾西出発
十二月十八日東安省密山県馬家壬有同日ヨリ同地警備
十二月一日伍長勤務
自昭和十四年一月四日
至昭和十四年三月三十一日
内閣告示第五号二依ル恩給法第二十三条第一項二依ル加算六ケ月
自昭和十四年九月七日
至昭和十四年九月十六日
内閣告示第五号二依ル恩給法第二十二条第一項第一号ヲ準用ス同条第二項ノ加算三ケ月
昭和十五年六月二十七日関東軍第二下士官候補者隊二分遣ノタメ密山県馬家子出発
※以下PDFにて「東安省密山県馬家子」に関する記述あり。
「満州、そして内地の防衛」山形県 高山義夫(旧姓 荒川)
六月三十日延吉着同日関東軍第二下士官候補者隊二入隊
十一月二十日同隊卒業
同日延吉出発
十二月二日東安省密山県馬家子着同地警備
自昭和十四年四月一日
至昭和十五年三月三十一日
卜昭和十二年内閣告示第十八号二依ル恩給法第二十二条第一項二規定スル加算一ケ年九ヶ月半絵陽県
自昭和十五年四月一日
至昭和十六年三月三十一日
昭和十五年内閣告示第十九号二依ル恩給法第九十二号第一項二規定スル加算ニケ年密山県
四月二十日給一等級
昭和十六年七月二十四日臨時編成(甲)下令
七月二十八日第十一中隊附
八月二日編成完結
十月六日当壁鎮監視隊トシテ派遣ノタメ馬家子出発
同日密山県当壁鎮着
同日ヨリ同地附近ノ国境警備
昭和十七年七月七日勤務交代ノタメ当壁鎮出発
同日馬家子着同地附近警備
七月一日陸選第四十二号陸運武官昇給規定二依り給二等給
九月六日第二大隊本部附
十月十五日カタール性黄疸ノタメ東安第一陸軍病院二入院
十一月十六日退院
十二月二十一日給二等級
昭和十八年十二月二日移駐ノタメ密山県馬家子出発
同月四日密山県場自着
同日ヨリ同地警備
昭和十九年二月二十二日南洋諸島作戦ノタメ「口」号編成下令 二月二十六日編成完結
同日密山県揚同出発
二月二十八日鮮満国境通過
自昭和十六年四月一日
至昭和十九年二月二十八日
内閣告示第十九号第一項ノ規定セル加算八十二ヶ月
三月四日釜山港出帆・四月十二日南洋諸島カロリン群島メレヨン島上陸同地守備
自昭和十九年四月十八日
至昭和十九年五月一日
対空戦斗二従事
六月一日昭和十九年軍令陸甲第五十八号二依り独立混成第五十旅団臨時編成並第七派遣隊復帰下令
六月五日編成並復帰着手
六月九日独立歩兵第二三四大隊本部附
同日編成並復帰完告
昭和十九年八月一日給二等級
昭和二十年九月二十日メレヨン島出発
九月二十八日別府上陸
十月十日復員完結除隊